“翠”…それが彼の名前だった。最高神と共に育った軍神で、今は部下の茜という氏神の探し出した“候補者”との接触を終え、“真実”を紡ごうとしている…。
「分かった。何れは明らかになる事だ……この際ハッキリとしておこう。先ず、茜は元始開闢天神様により創造を賜った氏神という存在で、人間の家名に宿り、家を守り、霊力を持つ者に仕える役目を担っている。」
感情を込めずに言う翠は、梛達の反応など気にもせずに淡々と続けた。
「茜の様に氏神は他にも多数存在し、天神様は、これら氏神の探し出した候補者から正統な“覇者”を見極めるおつもりだ。」
梛の頭には聞きなれない言葉ばかりがグルグルと巡っていた。“候補者”“覇者”……一体何の事だろう?……悠良も言及した事ではあるが、茜が自分に付き従う本当の理由とは…。
それがこれから翠という得体の知れない神から語られようとしている。梛は真実を知る事に不安もあったが、それ以上の好奇心が彼に耳を傾けさせていた。
「そういえば、候補者が何かを言ってなかったか…候補者とは覇者になれる素質を持つ霊力者の事だ。覇者とは天神様が認める最高の霊力者の事……。」
「………茜が仕える理由は、その覇者って奴を選定する為か?」
横にいた悠良が真に迫る声色で翠に言及した。翠は悠良を横目で流すと、再び事務的な口調で告げた。
「察しが良いな。そうだ、氏神の本来の目的は“覇者”となる候補者を探し出す事にある。氏神とはそれが役目であり、それ以上の存在では決して無い……。」
言葉には感情が無く、梛には酷く冷たいものに感じられた。そして氏神を、茜をモノの様に言う口振りに、不快を覚えた。
「で…その覇者って奴は何の為に必要なんだ?」
梛は翠を睨み付ける様に静かに問うた。
「暴走体の元凶を消し去る為だ……。」
しかし翠は全く表情を変える事無く応えた。
「紅丸から聞いたが、暴走体ってのは神の成れの果てなんだろ?それを何だって……。」
「それは霊力者にしか暴走体は感知出来ないからだ。」
―それは紅丸から聞いたものと同じ言葉だった……。暴走体を感知できるのは霊力者だけと。しかし梛にはそれでも腑に落ちなかった。ならば候補者など見つけなくとも霊力者に協力を仰げば済む話しじゃないか……そう思ったが、しかし口にはしなかった。言った所でどうなる話でも無い様に思えたのもあるが、何よりもそれで済むのであれば初めからそうしていたハズである……。覇者が必要な理由が、もっと大きな真実あると、梛は直感で分かった。ある程度の勘繰りを済ますと、梛は視線で翠に続きを促した。それに応えるように翠は静かに語り始めた……。
「暴走体にはそれを生み出す元凶が存在する。そして、それを打ち滅ぼさなければ天上界も地上も死滅する事になる。」
「!!」
翠の言葉に梛を含めた全員が凍りついた。茜や紅丸も例外ではない。さらりと言って退けたが、その内容はとても深刻なものだった。世界の滅亡を示唆するその言に、誰一人として言葉を発せ無かった。
「驚くのも無理は無い。昨日今日で氏神と出会い、私と出会い……挙句の果てには候補者とされ世界の滅亡をも通告されたんだからな……。だが、これは紛れも無い事実だ。一刻も早く覇者を見つけ出し、“あれ”を託さねばならん。覇者にしか扱えぬ、唯一暴走体に対抗できる“あれ”を……。」
初めて感情を露にし、歯噛みする翠……。俄かには信じ難い事だが、嘘にしては大業過ぎる……。梛は事の真相を確かめる為にはこの頭の中に染み入ってくる嫌な感覚の正体をこの目で確かめる事しかないと、そう感じた。ふうと溜息を吐くと、翠に真摯な眼差しを向けた。
「………分かった。その元凶を断てば、世界の滅亡は避けられるんだな?」
「え?ちょっと梛、まさか……。」
梛の語気に、悠良は嫌な予感を覚えた。梛は幼い頃から危険な事に手を出す時には静かな、そして語気に強い意志を込めて話す癖がある。姉として、家族としてずっと梛と生活を共にして来た悠良にはすぐに分かった。梛が覇者になるつもりでいると……。
「ああ、そのまさかだよ!俺にしか出来ない事なら俺はやりたい…。悠良姉には心配掛けるかもしれないけど、世界が滅亡するか否かって時に何もせずに終わりを迎えるのは嫌だから…。」
珍しく心配そうに梛を見る悠良に笑顔で応えると、梛は翠に視線を戻した。
「俺は、候補者なんだろ?ってことは覇者になる事が出来るって事だよな?」
「……ああ、しかしそれには先ず覇者となる者の選抜を行わなければ……。」
「選抜?」
翠の言葉に梛はすっとんきょうな返しを送った。―なんだ?俺以外にも候補者っていんの?― 言い掛けたが声にはなっていなかった。目を文字通り点にした梛に一瞥を下すと、
翠はこくりと頷いた。
「そうだ……選抜だ。残念ながら候補者と言うのはあくまでも覇者になる“可能性”を秘めた者の事だ。今後現れるであろう暴走体との戦いなどを参考に、天上界の神々の議論の末に決定する事なのだ。」
「………はぁ。」
まだ理解の及ばない頭で、梛は生返事を返した。翠は構わずに続けた。
「現在、覇者の候補として上がっているのは君を含めると4人になる。この4人の中から、厳選な審査の元に、覇者は決まるのだ……。」
「なるほどな……。サッカー日本代表みたいなもんか……。」
「何だ?それは………。」
「い、いや何でも無い。」
「そうか……では、覇者の候補として暴走体と戦うんだな?」
「あ、ああ…。もちろん……。」
―そういえば神様だからウケるハズ無いか……。浅はかな発言に梛は恥ずかしくなった。
悠良も呆れた様に頭を抑えている。梛は場の空気を一変させてしまった……。―あちゃ〜…流石の茜も呆れてるかも…。と、梛が茜に視線を向けるのと同時に、突然に茜が梛に掛け寄り深く頭を下げた。
「ごめんなさいっ!!私……その……ずっと黙っていて…。本当は、もっと早く梛様に告げるべきだったんですけど……。その……。」
「茜……?」
半ベソをかきながらペコペコと心底申し訳なさそうに誤る茜に、梛は優しく微笑みかけると、その細く華奢な体を優しく抱きしめた。
「別に……俺は何にも気にしちゃいないよ。確かに驚いたけど……俺はお前とあの日出会った時からこれは運命なんだって……そう思った。小さい時からあるこの霊力が、漸く役に立つ日が来たんだって……。だから、俺は何にも気にしちゃいない…。」
「梛……様……。」
―温かい。茜は梛の腕の中で心地よさを感じていた。少し堅いが決して嫌ではないその感触……。同時に茜は自分の頬が紅潮しているのに気付いた。心音は早鐘を鳴らし、頭はポーッっと煙掛かった様にぼやけている。―なんだろ?この気持ち……。梛様をまともに見れないよ……。梛と視線を合わせたが最後、茜は心臓が飛び出しそうな、そんな感覚に陥った。だが、もう少しこうしていたい……そんな気持ちもあった。
茜は梛に……自分の主人に仄かな想いを抱いてしまった……。
朝食を済ませ、朝の芸能情報に視線を向けながら、梛は物思いに耽っていた。
茜が自分を選んだその真意とは…。そもそも茜の目的は……。
思案した所で皆目検討が付くハズも無い事は分かっていたが、知りたいと思う好奇心もまた本心だった。食器を洗う綺麗な女の子……。梛の家に住まうその娘は神様である。つい数日前に通い慣れた神社で出会い、ロクな説明も無いままに自分は貴方に使える者だと半ば居候になった。名を茜と言い、純粋無垢でちょっと天然の入った美少女…。よくよく考えてみれば何故自分は茜を疑う事無く受け入れたのだろうかと、梛は思った。
「はぁ……考えても仕方ない!何度も言うように、これは俺の運命なんだ。」
ひとりごちて、梛はふと脳裏に不思議な感触を受けた。霊力の感応である…。梛は幼少時代から霊的、神的なものとのコミュニケーションが取れる特別な力を持っている。それは姉の悠良にも備わるもので、茜や紅丸との出会いもこの力があればこそだった。その霊力が霊的、神的なものに感応すると、脳裏に表現できない感覚を与えるのだ。梛はすぐさま隣の悠良を見た。案の定、悠良の方も梛を見返した。
「悠良姉……これって。」
「ああ、茜や紅丸以外のだね。こんな感覚は初めてだ。何だ…こう、嫌な感じなんだよな。」
梛は静かに頷いた。茜や紅丸とは違う重い感覚…。悠良が“嫌な”と表現するのも頷けた。
二人でアイコンタクトを交わすと、梛は茜と紅丸を呼んだ。
「ちょっと、二人とも来てくれ。」
呼ばれた茜と紅丸は怪訝そうに顔を見合わせると、梛の正面に集合した。
「あの……梛様?」
「一体どうしたのです?梛殿。」
「何か嫌な感覚がするんだ……。お前ら、何も感じないのか?」
梛の問いに二人は首を傾ぐばかりで何も感じてはいないらしい。梛は心なしか疑問が生まれた。……茜は神で、紅丸は式神なんだよな?何で何も感じない……。茜との出会いも、紅丸との出会いも、互いの霊力の感応による力の共鳴が引き合わせてくれた…。
「茜も紅丸も……霊的なものや神的なものを察知する事が出来るんじゃないのか?」
言って梛は益々強い感覚に襲われた。どうやら近づいている……そう直感で分かった。
「ええ、私も茜も同じ神や式神を察知する事は出来ますが……。」
「だったら、今何か感じないのか?」
言及する梛に、茜が心配そうに声を掛けた。
「梛様……何か感じているんですか?」
「ああ、悠良姉もな……。何かこう、頭にズンと圧し掛かってくるような…嫌な感じだ。」
「………まさか。」
梛が言い終わると時を違わずして、紅丸が何か思い当たる節がある様に声を紡いだ。
「茜……“暴走体”かもしれんぞ。」
「え………。」
何の事だ…。梛は重い頭を抱えながら紅丸の言葉に耳を傾けた。“暴走体”とは…。聞いた茜の反応も気に掛かった。
「紅丸……それは何だ?」
問う梛に少し曇りがちな表情を見せる紅丸…。どうやら良いモノじゃ無いらしいと梛は大よその検討を付けた。
「暴走体とは、我を失い無差別に害を成す“神”の成れの果てです……。」
「まさか、その暴走体って奴に感応してんのか?」
「分かりません……ですが、暴走体は我々の様に真っ当な神には感知出来ないんです…。」
「!!」
梛の背筋に粟立つものがあった。近づく感覚……。茜達では感知出来ない存在……。
暴走する神……。そして、暴走体を感知できる霊力者……。梛の中で何かが一つになった様な気がした。…茜との出会いも、まさかこの事に……。と、突然に悠良の声が響いた。
「見ろ!!天井が歪んでる……。」
直ぐさま上に視線を向けると、信じられない光景が現実に起こっていた。天井はグニャリと歪み、渦の様に回転している。何だこれは……。そう心で驚愕の声を上げると、梛は更なる驚きに遭遇する。
「マジかよ……。」
渦を巻く天井から何かが降りて来た。それは正にヒトのそれであったが、頭では処理できなかった。目の前で起きている事は紛れも無い事実だが、頭にある常識からは遥かに逸脱した光景……。そう、例えるならまさにゲームの世界の様な……。
「これは……もしかして、降臨(フォール)じゃない?」
突然に茜が梛の聞き慣れない言葉を発した。紅丸は理解を示したらしく頷いている。
梛は天井に視線を向けたまま茜に問うた。
「茜……その降臨(フォール)って何だ?」
「降臨(フォール) って言うのは、神が地上にやって来る時の現象です。神は空間や次元を無視して好きな場所に降り立つ事が出来るんです。」
「神?って事はここに今神様が降りてくるって事か?」
「はい……。」
言って茜は黙ってしまった。一方の梛も大まかな理解が及ぶとそれ以上の言及はせず、再び天井に意識を集中させた。神が降りる……。神の降臨と聞き、その場には自然と緊張が走った。次第に降臨してきた神の姿が梛達の前に露になり、全てが渦から抜け出ると、天井は何事も無かったかの様に元の平面に戻った。降り立った神は、薄紫の長髪を後ろで束ね、顔立ちは端整だが、その纏う衣装は戦う者…武士(もののふ)のそれだった。呆然と見つめる梛に、神は静かに声を掛けた。
「お前が……“候補”か。」
問われた梛はキョトンとしたまま、返答に困窮した。問われている意味が理解できないのだ。神はその様子に表情を変えずに、踵を返すと今度は茜に問うた。
「茜……候補に何も説明していないのか?」
ビクリと体を竦ませ、茜は怯えた様に神を見上げた。
「すいません、翠様……。まだ、何も……。」
茜の返答に呆れた様に翠と呼ばれた神は嘆息した。梛はその様子に、翠が茜の上司、位が上の神であるとなんとなく分かった。
「仕方ない…。私が説明しよう。」
言って翠は踵を再び梛に返した。その瞳は美しい翡翠色をしており、吸い込まれる様な感覚を梛は覚えた。すると、悠良が翠と梛の間に割って入った。
「ちょっと!梛に“候補”とか、茜に偉そうに物言ってるけど、アンタは何なんだよ?」
相手が神であろうが、物怖じしないのが梛の姉、悠良の良い所であり、また同時に欠点でもあった。言い迫られた翠は、しかし表情を崩さずに
「これは申し訳ない。私は神々の住まう世界“天上界”の最高神であらせられる“元始開闢天神”様より遣わされた、軍事を司る神で、茜の教育係を務めている“翠”だ。そちらの青年の事を“候補”と呼ぶのは、彼に神々を越える力が備わっているかもしれないからだ。」
と、淡々と述べた。悠良はまだどこか納得いかないらしく、引き下がろうとはしなかった。それどころか、ますますの言及を翠に迫った。
「そもそも、一体何の為に茜は梛に仕え、アンタはここに来たんだよ?!」
「ちょ、悠良姉!あんまし強気に出ると……。」
「そうだな。それも説明せねばなるまい。」
梛の静止を遮り、翠は返答を許諾した。いずれは分かる事……時期は早いほうが良いだろう……神々の内実を露呈する事にはなろうが構いはすまい……そう心中で判断を付けると、翠は静かに口を開いた………。
―朝日が昇り、眩いばかりの光に衒われながら街は次々に目を覚ましていく。家の外から聞こえ舞飛ぶ幼く明るい声達に耳を傾けながら、梛は眼前に正座する灰色の髪が美しい青年にちらと視線を向けた。
「要するに……お前は紅丸なんだな?」
紅丸かと確認された青年は静かに頷き返した。梛はその顔に偽りが無い事を見極めるかのように青年の表情をつぶさに観察した。
「信じてはもらえませぬか?」
青年は梛に真摯な眼差しを向け、諭す様に言葉を投げた。
「ん〜……信じないってワケじゃないけど……。」
濁すように言う梛に青年は更に続けた。
「では、何故!?その様な嫌疑の眼差しを向けるんです?」
しかし今度は諭すというよりも迫るような強い語気を孕んでいた。流石に梛もピクリと反応を示した。苦笑いで返すと恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いや、疑ってるんじゃ無くて……その…紅丸って綺麗だなぁって……。」
「!!」
梛の口から出た言葉に青年は、紅丸は思わず目を見開いて梛を凝視した。
「な、なんですと……?」
「だから、綺麗だなって思ったんだよ。お前の顔。女みたいだなぁって……。」
「そ、そんな下らぬ事を?」
「ああ、そんな下らぬ事だ。」
「…………。」
紅丸は呆れたように溜息を吐いた。―この人は、なんというか…偏見を持たないのか、それとも馬鹿なんだろうか……。―
心の中で嘆息し、朝早くから続いた心労を取り払うかの様に紅丸は正座を解いた。
「はぁ……何と言うか、今日は朝から心労が絶えませんよ。悠良殿とは一悶着あるし、
梛殿にも危うく赤の他人呼ばわりされる所でした。」
「姿が変わるんなら、事前に言っといてくれよ。こっちは紅丸の事、知らない事だらけだからな。」
「確かに……。私の説明不足でしたね。」
首をコキコキと鳴らし、紅丸は眉根を寄せた。一方の梛は紅丸とのやり取りを交わすと、そろそろかと言った様にソファーから身を起こした。
「さてと…。」
「何かあるんですか?梛殿。」
訝しげに尋ねる紅丸に若干の苦笑を見せると、梛は居間から臨む階段の上方を指差した。
「いつもの事だよ。悠良姉ってば寝惚けがヒドイから俺が見とかないと階段から転げ落ちるかもしれないんだ。ま、落ちて一回くらい大人しくなってもらいたいモンだが…。」
皮肉交じりにニヤリと笑ってみせる梛に、紅丸も心中察するに余りあると苦笑いで応えた。
すると、炊事でアタフタとしていた、頭に氷枕をあてがったこの家の氏神、茜がしかめっ面でズカズカと梛に近づいて来た。
「ちょっと梛様、自分の家族の不幸を願っちゃダメですよ。」
プンプンという擬音がピッタリと当てはまるその怒り方に、梛は怒られているのに何だか可笑しかった。
「冗談だって、冗談!悠良姉なら例え寝たまま階段から落ちてもバシッと着地すっから。」
「あ、そうなんですか?だったら、安心ですね。」
「いや……その返しは違うぞ……。」
茜はとても純粋で無垢で、人を疑う事を知らなかった。それが人に仕える氏神の在り方であり、特に茜の場合は“そうでなくてはならない”理由があった。彼女自身も知らない自らに課せられた使命…。この時、出雲家の誰も気付いてはいなかった……。いや、気付かない様に仕向けられていたのだった……。
―天上、元始の間―
「茜……無事に“候補”との生活に順応して行ってる様だな……。」
豪奢な造りの社殿に鮮やかで艶やかな景観…ここは地上とは隔離された別世界…。美しさを損なわない永遠の花園、四季折々の情景は次元を超えて常に空間に存在する。神々がその身を置く“天上界”…。その楽園の中でも一際煌びやかな一角でその神は自分の創り出した神の様子を社殿に栄える大鏡から静観していた。
―氏神の創造主であり、天上界の最高神の一体…元始開闢天神……。彼女は美しく艶やかな顔を綻ばせ、地上で“使命”を担っている一体の氏神、茜に少なからず期待を抱いていた。
「天神様……冠滅愚訓神様からの言伝を預かってまいりました。」
声に天神は大鏡から視線を移した。見るとそこには一人の若々しい青年が膝を着いて頭を垂れていた。薄紫色の長髪を後ろで束ねた端整な顔立ちの青年は、腰に刀を差し所々に甲冑を身に着けている。名を「翠(すい)」と言う軍事を司るその神は、精悍な面持ちで、しかし決して天神に頭を上げる事無く続けた。
「翠…頭を上げて良い。」
「言伝をここで申します。」
天神の心遣いを流すと、翠は言った。
「私の様な者にお心遣いなど要りません。このまま申させていただきます。」
「……申せ…。」
言葉に一切の感情を込めず、しかしどこか寂しげに天神は言った。それに小さな頷きで答え、翠は声音に神妙な色を含めた。
「地上に、“暴走体”が現れたとの事です。愚訓神様は、“候補”と接触させよとおっしゃっています。いかがなさいますか?」
天神の眉根が僅かに動いた。無表情だった顔には明らかな嫌悪が浮かんでいた。
「何故奴が私に指示を下す……。氏神と“候補”の事はこちらに一存している筈だ。式神の指揮が奴の役目というのに……。」
忌々しげに目元を歪め、天神は遥か彼方に視線を移した。
「それで……いかがなさいます?」
しかし翠は天神への気遣いを持たず、事務的に再度返答を仰いだ。天神はその声に我を取り戻した様に普段の表情に戻った。天神と愚訓神の間には確執があった。それも根深い…。彼女は愚訓神を快く思っておらず、同じ最高神でありながらも指示される事を特に嫌っていた。普段は冷静な天神が唯一、感情を剥き出しにして怒りを覚える相手だった。翠はそんな天神を鎮める事が出来る唯一の存在でもある。彼の声色に彼女は不思議と怒りを忘れるのだった。否、天神は翠に特別な感情を抱きつつあったのだ。翠は天神に長く仕え、彼女とは天上界で共に育ってきた。唯一自分を分かってくれ、隣にいてくれた翠に、天神は自然と惹かれていた。しかし、神々の間での階級は絶対的なもの。最高神と従士神では雲泥の差がある。天神が翠を愛する事も当然許されない…。くるりと踵を返し、翠に背を向けたまま天神は感情を込めず告げた。
「奴に指図されるまでもない。当然、接触させる。そこでだ、翠。」
「は。」
「お前には地上に赴いてもらうぞ。“候補”も茜も現状では暴走体に抗えん……お前が暴走体の処分をせよ。」
「仰せの通りに……。」
翠は深く頭を垂れると、静かにその場を後にした。天神は翠の残り香のする社殿の庭に降りると、静かに目を閉じた。
「翠……私は……お前を……。」
胸を抱き、その場に膝を着く天神…掠れる様に言ったその声はどこか震えていた……。
二度目の床掃除を終えた茜はふと“ある事”を思い出した。とてもとても重大な事…。
急を要する事…。ハッと目の前にある半開きのままの扉に顔を向けると、冷や汗が滲んでいるのが分かった。
「どうしよう!?紅丸の事すっかり忘れてたぁ!大変だよ〜!悠良さんに…悠良さんに見付かっちゃう!!」
茜の心配は、懸念は既に部屋の中で展開されていた。茜が床の拭き掃除に意識を向けてから雄に10分以上の時間が経過している。その間、部屋の中では……

―紅丸は悠良に事情を説明していた。始めのうちは聞く耳も持たずにいた悠良も、紅丸の聞き覚えのある声によりその臨戦態勢を止めていた。
「……ホントに……紅丸なのか?」
昨日の夜まで、眠る寸前まで狛犬の愛らしい姿をしていた紅丸が今、自分の目の前で美しい青年の姿をしている事にどこかまだ怪訝そうに、悠良は尋ねた。
「本当に私は紅丸ですよ。」
「じゃあ、何でコソコソ逃げる様にしてんだよ!?」
「それは、こんな姿で悠良殿と添い寝していたんではそれこそ悠良殿が目が覚めた時に驚かれると思って……。」
「……確かに。」
納得のいった様に頷くと、悠良はふぅと溜息を吐いた。悠良には弟の梛と同じく「霊力」がある。彼女は故に神や霊といった非現実的な存在を見る事も出来れば、触ったり話したりする事も出来る。幼い頃から備わったその力が、目の前にいる、紅丸と名乗る男に反応している…。彼女にとって、それはどんな言い訳よりも確かな確証を齎してくれた。
「……わかったよ。信じてやるか。アタシの部屋に侵入出来るヤツなんかまずいないからね。アタシと寝てた紅丸はアタシの横にはいない、その変わりに人の姿をした紅丸がそこにいる……。そうなんだな?」
漸く疑いが晴れた紅丸はホッと胸を撫で下ろすと、微笑みながら言った。
「ええ、そうです。私は式神ですから。」
「よく分かんない理由だけど、ま、いいか。」
それに応える様に悠良もニッコリと笑った。何とか大事に至らずに済んだ事に紅丸は内心で冷や汗を拭うと、悠良がもう一眠りすると言う事なので、部屋を出る事にした。
―と、
ゴツッ!!!!
何か硬いものが扉を開けた途端、勢いよくぶつかった音がした。
「イッッッッタァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!」
次に絶叫の様な叫びが木霊した。紅丸は何事かと覗き込むと、
「あっ………」
頭を抑えて涙を流している茜がうずくまっていた。
―しまった!茜が廊下にいるのを忘れていた―
額に手をあてがうと、紅丸は嘆息した。
「いや、すまない……。すっかり茜の事を忘れていたよ。悠良殿に事情を説明するのに精一杯で……大丈夫か?」
しかしすぐさま茜のもとに駆け寄るや否や、紅丸は素直に非を詫びた。茜はその綺麗な瞳に涙を一杯に溜め込み激痛に呻く頭部を押さえ紅丸を見た。
「ひっく……痛いよぉ……。」
泣きべそを掻きながら茜は訴えかけるように紅丸を見据え、溢れてくる涙を白く透き通った頬に流した。
「す、すまん!そんなに痛かったか?………。」
紅丸は予想以上の痛がり様に動揺した。女性の涙と言うものに慣れていない分、こういう時の対処法を紅丸は知らなかった。ただただオロオロとするだけで、一向に良い案が浮かばない。すると、
「一体どうしたんだよ?こんな朝っぱらから…何の騒ぎだ?」
悠良の部屋の隣に位置するもう一つの部屋から、若い男の声がした。声は眠気をまだ伴っており、恐らくは茜の叫び声に起こされたのだろう。部屋から出てきた男はボサボサに寝癖の付いた頭をボリボリとガサツに掻きながら紅丸と茜の方に近づいてきた。
「梛殿!!丁度良かった!」
紅丸は男を梛と呼び、明るい顔色を浮かべた。そう、彼こそが茜に最高の霊力者として認められた主人であり、紅丸の主人をも買って出た「出雲 梛」だった。梛は、怪訝そうに床にうずくまる茜を見た。
「……どうしたんだ?」
梛に呼ばれた茜は、それこそ何かが弾けた様にブワっと大粒の涙を零しながら梛を見上げた。
「うわっ!?な、なななな何なんだよ?!」
梛も紅丸と同様に女性の涙には抗体が無かった。もっとも、姉の悠良が涙などするはずも無い為に仕方の無い事でもあった。まるで自分が泣かせたかの様に梛は罪悪感に苛まれた。
「うぇっく……梛……さまぁぁぁぁ!!」
「わわわ、だから何だよ?!」
涙を止め処無く流しながら茜は梛に飛びついた。全く状況が把握出来ていない梛はただオロオロと狼狽するだけで言葉もたどたどしく空を吐いた。
「え?え?一体何がどうなってこうなったんだ??」
すがる様に抱き付いている茜越しに梛は紅丸に視線で ―状況を説明してくれ―と送った。
それを直ぐに汲み取った紅丸は少し申し訳なさそうに口を開いた。
「すいません……私の不注意で…その、茜が廊下にいたのを忘れて扉を…その…勢い良く開けたら……まぁ、ゴツンと…。」
「茜の頭にクリーンヒット、場外ホームランってワケか?」
気まずそうに話す紅丸の言葉を梛が続けた。紅丸はただコクリと頷くと黙ってしまった。
「なんだ……そんな事か。焦ったぞ、ホント……。俺が何かやらかしたかと思った。」
怒られるのかと思い俯いていた紅丸は予想外の反応に驚き顔を上げた。
「え?……私を諌めないんですか?」
そして思わず梛に問うた。すると、梛は苦笑しながら茜の頭を優しく撫で、紅丸に視線を移した。
「どうして俺が紅丸を怒る必要があるんだよ?不可抗力…事故ってヤツじゃないか。」
「梛殿……。」
梛の言葉に紅丸はふぅっと全身の力が抜けた様な感覚に陥った。今の今まで罪悪感と焦り…動揺に困惑といった感情にどうしようもなくなっていた自分が嘘の様に安堵している。
―やはりこの方には秘められし力がある様だ。茜が見込んだだけはある…―
そう心の中で感心すると、紅丸は安堵の溜息を吐いた。
「茜……大丈夫か?こんなの冷やしときゃ治るって。」
優しく梛は茜の頭を擦り言った。すると、さっきまで洪水のように涙を流していた茜の瞳からはピタリと涙が止まってしまった。
「…はい。あの…梛様……。」
「うん?」
「ありがとうございます!……その……嬉しいです……その一言が…。」
「そっか……そう言ってくれると俺も何か嬉しいよ。」
泣き濡らして赤くなった鼻を擦りながら、茜はニッコリと純真な笑顔で梛を見た。
梛はそれに満足そうに頷くと、茜の為の氷枕を取りに向かった。
―と、不意に廊下に腰を下ろし、微笑みを浮かべる美しい青年の姿が梛の目に留まった。
紅丸との会話は記憶にあるのだが、梛にはどうしても目の前の青年に覚えが無い。
―あれ?さっき話してたのは紅丸…だよな?…紅丸は狛犬だろ………ん?―
つい数分前の記憶を必死に模索するが、やはりどうしても思い出せない。茜の方に視線をやると、その見知らぬ男に微笑みかけている。しかも、なにやら見知らぬ男は親しげに茜と話し始めた。梛はますます混乱した。
―???誰?誰?誰?誰?………知らない男……侵入者???―
梛の視線に気付いた紅丸はキョトンした様子で首を傾げた。
「ん?どうしました?梛殿?」
「…………お前……誰?」
「あ!(この姿の事言ってない……)」
「いや、その……。」
「…………誰?」
        続く。
秋の朝は肌寒く、紅丸は背中に触れるひんやりとした冷気に目を覚ました。窓からは微かに陽光が射し、部屋の埃がキラキラと宝石の様に光っている。
「う、う〜ん……ここは…?」
起きて直ぐの頭には十分な酸素が行き渡っておらず、ぼんやりとした中で紅丸は自分の居場所を模索した。
「……そうか、確か昨日、茜と会って…その主人の梛殿に会って私の主人になってくれて……。」
とつとつと昨日から今現在の状況を記憶の道を辿っていく内に、次第に紅丸の頭はスッキリと覚めて来た。
「そうだ、思い出した。それから梛殿の家に行き、悠良殿に会い、一緒に入浴し………それから…。」
ふと辺りを見回すと、そこにはすぐ傍で寝息を立てている悠良の姿があった。
「そうか……悠良殿にそのまま部屋に連れて行かれて、眠ってしまったのか。」
一つ大きく欠伸を吐くと、紅丸はフッと小さく笑みを零した。
「ハハ、今までずっと孤独に耐えながら生きてきた私が、よもやここまでしてもらえるとはな…。茜との再会といい、これは運命というものなのかもな……。」
独り言のように呟くと、紅丸は何気なく壁に立て掛けられた大きな鏡に視線を遣った。鏡には寝息を立て可愛らしい寝顔で眠っている悠良の姿と、灰色の髪に整った顔立ちの青年が映っていた。
「………ん?」
紅丸は怪訝そうに鏡に映る青年を見た。すると鏡越しの青年も同じように怪訝そうな顔をした。更に訝しく思った紅丸は左前足を振った。すると、鏡越しの青年の左手がユラユラと動いた。暫しの間沈黙し、紅丸はある一つの事に頭が行き着いた。
「はぁ…なんだ、昨日は満月だったのか。誰かと思ったら人間の姿の私じゃないか。」
ホッと安堵の溜息を吐くと、紅丸は深呼吸をした。そう、紅丸はただの式神では無いのだ。彼は普段は狛犬の様な姿をしているものの、満月の夜から三日間の間、人間の姿になってしまうのだ。落ち着いた様に髪を掻くと、紅丸は静かにベッドから離れ、部屋を後にしようと扉のノブに手を掛けた。
―この姿で悠良殿と寝ていたのでは大変だ。彼女はまだ狛犬の私しか知らないんだ。―
そう心中で呟くと、紅丸はノブを静かに回した。
―ガチャッ―
金属の擦れる音が静寂の部屋に響いた。紅丸は悠良の状況をつぶさに確認しながら慎重に扉を押した。
―と。
「あれ?どうしたの、紅丸?早いね。」
「うわっ!!茜!シーッ!声が大きいぞ。」
扉の隙間から突然に茜が声を張った。思わず身じろいだ紅丸は無意識に声色を強くしていた。茜は訝しそうに首を傾ぐと、流石に注意された後と言う事もあり、今度は声音を小さくして言った。
「どうしたの?何で悠良さんのお部屋に?」
「私も良く分からん。どうやら昨日悠良殿の部屋で散々弄ばれた挙句、疲れて寝入ってしまったようなのだ。」
「ふぅん……。で、何でこんな朝早くに起きてるの?」
「たまたま寒くて目が覚めたんだ。だが、鏡を見たらほら!この通り人間の姿になってる。」
「あ!本当だ。って事は昨日、満月だったんだね。」
「そうらしい。でだ、このまま悠良殿が目覚めるまで一緒に寝ていたんじゃ大変な事になる。」
「???大変な……事?」
茜は再び訝しげに首を傾いだ。純粋に分からないと言った風である。若干呆れた様に首を振ると、紅丸は続けた。
「そうだ!悠良殿は私のこの姿を知らん。しかも、梛殿に伺ったのだが、何でも悠良殿は今まで男性と交際した経験が無いそうなのだ。それなのに朝起きたら見知らぬ男が隣で寝ていたとなれば……。」
ここまで話し、漸く悟ったように目を見開くと、茜はこくりと頷いた。
「そっか……。それはまずいよね。だったら早く出なきゃ。」
「だから、こうしてるんじゃないか。茜、すまないがどいてくれ。出られない。」
「あ……ごめん。」
慌てて茜は体を退かそうと後退した。すると、綺麗に自分が磨き上げた床で思いっきり滑ってしまい、それこそ地震の様に大きな音が家に木霊した。
「イタタタタタ……。」
「ん〜…何だ?こんな朝からドタバタうるさいなぁ……。」
「!!」
流石の悠良もとうとう目覚めてしまった。当の紅丸はと言えば、未だドアノブに手を掛けたまま半開きのドアに片足だけを踏み出した状態で硬直していた。
「ん〜……茜、なのか?それとも梛の馬鹿かぁ?」
寝ぼけ眼を摩りながら半ば夢現と言った様子で悠良はフラフラとその艶かしい肢体を起こした。
「―ッ!!」
悠良がベッドから起きた瞬間に紅丸の視線は硬直した。悠良は下にパジャマなどを履かず、
ランジェリー姿のままなのだ。ただでさえスタイルが良い悠良だが、下着姿だと余計にその体は強調され色っぽく見えた。
「ん……そこに立ってるの……茜なのか?」
紅丸の姿をぼんやりとした目付きで窺いながら、悠良は次第に近づいて来た。
「茜!茜!早くどいてくれ!悠良殿が来てるんだ。」
いよいよもって動揺した紅丸は思わず大声で叫んでしまった。と……。
「ん?何だよその声は……。梛のでも無いしましてや茜のワケがない……そこにいんのは誰だっ!?」
案の定、紅丸の声に違和感を感じた悠良が、すっかり目覚めてしまい、物凄い剣幕で紅丸に詰め寄って来た。一方、扉の向こうでしたたかに尻餅をついた茜は、痛むお尻を擦りながら紅丸の言葉など届いていないかの様にゆっくりと立ち上がると、尻餅をついた床を恨めしそうに見下ろした。
「イタタ……何で私ってこんなに磨き過ぎちゃうんだろ?…これじゃ梛様や悠良さんが怪我しちゃうかも……。」
「おーい!茜!早くどいてくれって!!直ぐそこまで悠良殿がぁー!」
「あー!これフローリング用のだったんだ……。確か梛様がフローリングは居間だけだって……。だからこんなに滑りやすくなったのね…。」
「茜!茜!」
紅丸の呼び掛けに全く気付かずに、茜は床の拭き直しを始めていた……。
「よくもアタシの部屋にノコノコと入ってきたもんだね……。覚悟は出来てるんだろうな?」
茜が拭き掃除のやり直しを始めた頃、紅丸はいよいよ窮地を迎えていた。悠良は既に戦闘態勢に入った様に指をポキポキと鳴らして迫ってくる。
「ちょっ…ちょっと待ってください!悠良殿!!」
「アンタみたいな侵入者に“殿”呼ばわりされる筋合いなんかないね!!」
全く聞く耳を持たず、悠良は紅丸に迫って来た。
「悠良殿、この声に聞き覚えはありませぬか?」
「何ぃ?聞き覚えだぁ?そんなもん………あれ?」
咄嗟に出した質問に悠良は意外にも反応を示した。歩みがピタリと止まり、何やら思案気に首を傾げている。
「う〜ん…言われてみれば何か聞き覚えがある様な……。」
「そうです!聞き覚えがあるハズです!ほら、昨日悠良殿は何かと一緒に寝ませんでしたか?」
「………あ。紅丸!そうだ、アタシ昨日紅丸と……って…何?まさか、アンタ…。」
「そうです!!私は紅丸ですよ!ワケあって満月の夜から三日間だけ人間の姿になってしまうんです!」
―このままいけば何とか分かってくれそうだ!―
確かな手応えを感じた紅丸は、この状況を打破するべくより詳しく話しを続けた……。
眼前に佇む生物の姿に梛は張り詰めていた緊張や恐怖は消し飛んだ。一見すると犬であるが、よくよく見れば寺社等にある狛犬に酷似している……。確かに異形である事に相違は無いものの、梛の憶測では血肉を喰らう様なバケモノを誇大妄想していただけに、それに比較すれば“安堵”すら覚えた。

「い、犬だと?失礼な奴だな!こう見えても私は“式神”ぞ!」
犬と言わしめられた狛犬はムスッと不満そうに言うと、梛に嫌疑の色を浮かべた。

「……大体……お前、私が見えるのか?低級であれ神であるこの私が……。」

「ん?……みたいだな。俺、霊力者みたいなんだよ。」

「?!」
霊力者の言葉に狛犬はピクリと反応した。反芻する様に何度もブツブツと独り言を言いながら梛の言葉が虚辞かどうか確かめる様に数回一瞥しては思案気に首を傾いだ。

「う〜む…確かに霊力反応がある……いや、失礼しました。」
数瞬の空白が開いたかと思うや、狛犬は態度を改め梛を是認した。

「紅……丸?!」
すると、不意に茜の声が驚きの色味を湛えて空に飛んだ。
“紅丸”……そう呼ばれた狛犬は茜に視線を向けるや否や、パァーッと明るい色を浮かた。

「茜!茜か!!」
茜は紅丸の傍に駆け寄ると、嬉しそうに笑った。その顔は懐古と喜色に染まり、心底からの喜びが溢れていた。

「何?知り合いか?茜。」
全く状況が把握出来ずに、梛は親しげに寄り添いあう茜と紅丸を何度も視線で反復しながら、困惑気に尋ねた。

「はい!彼は私と同じ日に誕生した式神で、名を紅丸(くれないまる)と言います。“天上”ではよく一緒に遊びました。」
紅丸を語る茜の顔はとても輝いており、まるで宝物を紹介するかの様なその優しく情の籠った口振りに、梛は茜にとって紅丸が余程の存在なのだと直感で感じた。そして、何故か哀調の念が沸々と沸き起こった……。

「そ、そうなんだ……つまり、二人は……その、親友なんだ。」
しかし、根拠の無い感情に身を任せる訳にはいかないと、梛は
務めて明るい前向きな見解によって鬱屈した感情を振り払った。

「はい!大親友です!!」
ニコニコと眩しく愛らしい笑顔を浮かべる茜はただ純真で、無垢……。梛は薄い嫉妬を抱いた自分を恥じ、そして自己嫌悪した。茜はただ、大親友を紹介しただけなのに、一方的な感情に流されそうになった自分が、梛は情けなかった………。

「あの?梛様?」

「え?!いや……何でもないよ!!それよりさ、紅丸には主人とか居ないのか?俺が茜の主人になったみたいにさ。」
心の陰りを悟られまいと動揺した梛は咄嗟に質問をした。と、梛の質問に紅丸は少し表情を陰らせた……。

「いや…私は常に一人だ。」
哀調を帯びた声色で紅丸は答えた。不躾な質問を投げ掛けたかと、梛はフォローに当惑した。

「そっか………悪かったな。」

「いえ、別に何とも思っておりませんので……。」
気丈に振舞っているっもののその顔の曇りは依然として消えていない。

「あの、梛様……ちょっと。」
気まずそうに頭を掻く梛の背中を突然にグイと引っ張る者があった……。ベクトルの働く方向に踵を返すと、そこには申し訳なさそうに梛を呼ぶ茜が居た。梛は訝しくも思ったが、取り敢えずは呼ばれるままに茜の近くに寄った。

「あの……紅丸を……その……もし、もし宜しかったら…。」
モジモジと有耶無耶な言葉ばかりを連呼する茜を見て、梛は言わんとする所が分かった。ふうと小さい溜息を吐くと、

「分かった!!じゃあ俺が主人になってやるよ!!」
ニカッと茜と紅丸に笑い掛けると、梛は大きく鷹揚と宣言した。

「え?本当ですか?!」

「私の主人になってくれるのですか?!」
紅丸は信じられない者を見るかのような驚愕を浮かべながら梛を見た。梛は微笑み返すと、コクリと一度だけ頷いた。

「良かったね、紅丸!」

「あ、ああ!」
目に涙を一杯に浮かべながら親友(とも)の為に一心に喜んでいる茜……。梛は益々彼女の純真さに魅かれるものを感じた。

「俺は“出雲 梛”!!今日からお前の主人だ!」

「私は紅丸!今日から梛殿にお世話になります。」

「私は茜!!昨日から梛様にお仕えしています!」

「いや、茜はいいって……。」

……こうして、新たな家族が出雲家に増える事となった。紅丸と言う名の式神…。梛はこれも何かの縁だと思い込む事にした。
そう、茜と自分が出会ったその瞬間から、自分の運命に大きな転機が来たんだ……そう梛は解釈していた……。

「それじゃ、紅丸を姉貴に紹介しなきゃな!」

「そうですね!」

「ん?……梛殿には姉が居るのですか?」

「ああ!しかも俺と同じ霊力者!!」

「なるほど……。」

―出雲家

日は傾き始め、茜色の夕焼けがとても眩しかった。梛一行は自宅前に佇む一人の女性のシルエットに目を留めた。

「お!珍しいな…姉貴が出待ちなんて…。」
滅多に見ない光景だと梛は若干嬉しそうに言った。

「ただいま!いやぁ、疲れた疲れた……。」

「ただ今帰りました。」

「おぅ!お帰り!!どうだった?町案な…??」
梛と茜に駆け寄った悠良の視線に不意に犬らしき生物の姿が留まった。

「な、何だよ?この生物は……。」

「え?!…あ!…そうだ、悠良姉、これはその……。」

「う…そ……。」

「これはその……茜の親友で……。」

「めちゃめちゃ萌えるぅぅーーー!!!!」

「へ?!」

「でかした梛!!こんな可愛い奴拾ってくるなんて!!姉さんは今日ほど梛を誇れる気になった事は無いよー!!」

「そ、そうかよ……。(ま、いいか…気に入ってくれたみたいだし…)。」

「あの、梛殿?」

「うわーー!!喋れんの?益々可愛いーーーー!」

「家族の仲間入りだ。おめでとう紅丸……。」

「は、はぁ………。」

「良かったね、紅丸!」

……こうして紅丸は悠良にも大変気に入られ、晴れて出雲の式神として暮らしていく事となった…。その夜…。

「いやぁ、梛!紅丸は可愛いな!」
夕食を済ませ、団欒の時間を過ごしていた梛に悠良は恭しく擦り寄っていた。

「な、なんだよ?気色悪いなぁ…。」

「なぁ……梛ぃ〜。」
悠良は猫なで声で梛に迫っている……梛は呆れ顔で悠良を一瞥し、絡まる腕を振りほどいた……。悠良が人に甘えを見せる時というのは、何かをねだっている時なのだ……。

「わーったよ!!今晩好きにしていいよ!」
梛は一刻も早くこの地獄から抜け出すために悠良のおねだりに許可を降ろした。すると許可が降りた瞬間、

「マジ?あんがとさん♪」
バッと梛を突き飛ばすように紅丸の居るダイニングに駆けて行った…。

「いててて…ったく、あのバカ女……。」
一人愚痴を零し、梛はふと隣りに茜の気配を感じた。

「茜?」
茜はジッと梛を見つめたまま顔を恍惚に染めていた。

「あの…梛様…今日は、その、ありがとうございます!!」

「いいって、困ってる時はお互い様!それに、茜の親友を無下に扱うなんて出来っこないし……。」

「梛様……。」
二人の間に暫しの特別な空気が生まれた。まるで恋人同士であるかのように二人は暫し見つめ合ったままでいた……と、

「うわぁあぁあぁ!!梛殿〜!茜〜!!助けてくれ〜!!」

「そんなに恥ずかしがるなって!!一緒に風呂に入ろうって言ってるだけだろ!」
紅丸の悲鳴で二人の空気は掻き消された。

「梛様、楽しそうですね♪紅丸!」

「ハ、ハハ…そうね……
朝の陽光が燦々とアスファルトの路面に温もりを蓄えている…。
木々達は光を浴びて風にそよいではサワサワと音を立てた。
身が透き通る様な空気……。そんな心地の良さを全身に受け、梛と茜は歩いていた。

「なぁ、どこに行きたい?」
嘲笑する姉の見送りから二十分ほどが経過し、梛と茜は静かな遊歩道を過ぎようとしていた……しかし、その間の会話は乏しく、茜は何やら俯き気味に梛と若干の距離を保ちつつ歩みを進めている……。

「………ど、どこでもいいです……。」

「もしかして……迷惑だった……か?」

「!!」

「ハハ、そうだよな……行き成りこんな風に連れ出すんだもんな。」
梛は自嘲気味に頭を掻いた。茜はその光景を見るや顔をガバっと上げ、慌てて梛の隣りに近づいた。

「い、いえ!違うんです!!迷惑とかじゃなくて……その……嬉しかったんです………。梛様が私を構ってくれて……。でも、恥ずかしくって………。」
顔を仄かに桜色に染めると、茜はモジモジと体を小刻みに揺らした。梛はホッとしたように顔の緊張を緩めると、茜の肩をポンと叩き、突然走り出した。

「おーーい!早く来いよ!!コンビニ行くぞ!」
嬉しそうに顔を綻ばせながら梛は軽やかな足運びで駆けた。

「ちょ、ちょっと待って下さいよぉ!!コンビニって何ですかぁ?」
突然の事に咄嗟の判断が出来なかったが、茜は慌てて梛を追った。“コンビニ”……茜にとってそれは初めて耳にする言葉だった。一体どんな所だろう?…そんな期待と好奇心に胸を膨らませ、茜は梛を追った。暫く走ると、梛がとある建物の前で止まった……。

「ハァハァハァ……ここが、コンビニって言う俺達現代人が愛用してる店だ。」
梛の指差すままに視線を送ると、目の前には色とりどりに装飾された立て札らしき物がクルクルと回っており、建物は中が透けて見え、同じ服を着た人間が二人ほど小さな空間に佇んでいる……。茜は不思議な光景に思わず首を傾げた。

「梛様……ここが、コンビニと言う場所ですか?」

「そうだぞ。中に入るか?」

「はいっ!!」
瞳をキラキラと輝かせ、茜は梛の後に続いた……。
まず目に飛び込んできたのは、緑色の敷物が敷かれたスペースだった。視線を敷物から上へ送ると、そこには半透明の壁に亀裂が入った“何か”が行く手を塞いでいる……。

「あの……梛様、行き止まりでは?」
すると、梛はハハハと軽く笑い、茜の頭をポンと叩いた。

「そっか…茜は知らないよな♪よーく見とけよ!」
自信たっぷりに勿体つけながら、梛は敷物に足を踏み入れた……。シュイーーーン…突然に奇妙な音を立て、半透明の壁は真っ二つに亀裂から別たれ、梛はその間を何事も無く通過し、店内へと入った。一方の茜は目の前に起きている怪奇現象に目をパチクリと見開き、驚きのあまりに声を失っていた……。

「ホラ、茜も来いよ。」

「は、はい…。」
梛に呼ばれ、茜は恐る恐る敷物に足を踏み入れた、と次の瞬間、再び半透明の壁は亀裂から別たれた。

「やった……私にも出来た!」
純粋無垢な笑顔を梛に向け、茜は店内に入った。店内に入るや、

「いらっしゃいませ。」
と同じ服を身に纏った人間の声がした。辺りは様々な物で溢れ、茜にはどれも興味を引かれるものばかりであった。そんな様子を一人微笑ましく思いながら、梛はジュースを二本手に取り、レジに向かった。

「梛様?何をなさるんですか?」

「お会計だよ!」

「はぁ…………。」
ピッピッとリズム良く音が聞こえ、茜は何が起こっているのかを把握する暇も無い内に、梛に呼ばれコンビニを後にした。

「さっきのアレは何ですか?」

「ああ、アレね……あれはレジって言って、品物をお金で買う所だ。で、緑の敷物が敷いてあった所は、自動ドアって言って、手を触れなくても開く扉なんだよ。」

「そうなんですかぁ……。勉強になります。」
感心したように顔を綻ばせると、茜はペコリと頭を下げた。あまりに純真な茜に何だか気恥ずかしくなった梛は、鼻筋をポリポリと掻きながら、先程買ったジュースを一本取り出し、茜に手渡した。

「ホラ……これ飲めよ。」

「これは………?」

「ジュースって言う甘い飲み物。」

「………ありがとうございます♪」
どこまでも純真に、無垢な茜……梛は茜が喜んでくれるなら何でも出来る……そんな気がした。ジュースのキャップの外し方をレクチャーすると、梛は茜の反応を窺った。慎重に一口を飲み込む茜の姿は、とても愛らしいものだった。

「ゴクッ…………うわー、おいしいです♪」
満面に笑みを浮かべると、茜はニコニコとジュースを飲んだ。
ジュース一本で大層喜ぶもんだなと思いつつ、梛の顔は綻んでいた……。

「それじゃ……次はどこ行きたい?」
ジュースを飲み終え、一段落したところで梛は茜に行き先を問うた。茜はうーんと思案気に頭を傾げたが、

「どこでもいいです♪」
結局はこの一言に尽きた………。梛は苦笑を浮かべると、

「じゃあ俺と茜が出会った、あの神社に行こう!」

「はい!」
二人の出会いの場所……人も行き来の少ない寂れた神社を提案した。茜も快く賛成してくれ、こうして二人は再び来た道を戻りながら、神社を目指した。

―二十分後……。二人は神社の鳥居の下に来ていた。
鮮やかな赤が風雨に晒され、寂れた錆朱色へとその彩を貶めた二本の柱は、何とも物悲しげに立っており、梛の霊力に不思議な懐かしさを想起させた……。

「やっぱ何時来てもガランとしてんなぁ。」

「そんな事言ったら罰が当たりますよ。」
何気ない会話を交わしながら、二人は境内へとその足を進めた。
白と黒の玉砂利が石造りの通路の脇にびっしりと詰められ、更に端のほうは木々が鬱蒼と生い茂り、かつての賑わいを見せた神社の廃れた様子をまざまざと物語っていた。
二人はそこで暫し歩みを止め、何やら感慨深く言葉を交わした………。

「にしても、ここで茜と出会ったんだよなぁ……。」

「何言ってるんですか♪まだ出会って一日しか経ってませんよ。」

「いいのいいの!こういうのって、付き合った時間とかじゃ無いと思うんだ。」

「………梛様って、意外と繊細ですね。」

「まだ出会って一日で、俺が分かるかっつうの!」

「それもそうですね♪フフ……。」

「ハハハハ……。」
何気ない……しかし梛にとっても、茜にとっても掛け替えの無い時間だった。お互いが少しは理解し合えた……否、より特別な感情が芽生えの兆候を衒い始めた……そんな実感が梛には沸き始めていた……。と、突然に辺りの空気が剣呑なものへと変わり、“異”の気配が梛を襲った。茜とは全く異なる感覚……。梛は咄嗟に茜を見遣った。案の定、茜も異様な気配に気付いているらしく、真剣な面持ちで辺りを警戒している。

「梛様……。」

「ああ、恐らく境内の奥からだ……行くぞ!」
梛と茜は気配の方へと駆け出した……。恐怖はあったが、このまま去るのも躊躇われる程の異………。確かめずには居られなかった……。

「そこか!?」
境内の奥へと辿り着いた二人は、意を決して気配へ身を晒した………未曾有のバケモノか、はたまた凶悪な霊か……?

「ウガ?……お前、何だ?」
そこに居たのは確かに異形ではあるものの………犬であった。

「い………犬ぅ?!」
―天上・元始の間―

「そうか……茜が器を発見したか…。」

「はい。しかし、元始開闢天神様…本当に茜に任せて良いのですか?あの娘は……恋愛感情を持っております。万が一、主に対し特別な感情を抱いてしまったら、如何がなさるおつもりで。」

「杞憂な事よ。あの剣は愛の力に強く反応する……。むしろ愛し合ってくれた方が好都合だ……。」

「は、はぁ。」

「もうよい……下がれ。」

「は!」

「………さて、茜……お前の氏神としての働きに期待しているぞ………。」

―出雲家・梛の部屋

朝陽が俄かに差し込み、梛の顔は朝日の陽光に照らされていた。
時刻は六時半……日曜日という事もあり梛はぐっすりと夢の世界を堪能していた。が、

「梛さまーーーー!!朝ですよぉ!」
突然に清涼感のある優しい声が梛を呼んだ。姉とは正反対の声色に違和感を覚えた梛は、ガバッと身を起こすと、何事かとパンツ一枚の格好で部屋を飛び出した。

「誰だ!?」
居間に駆け寄ると、そこには着流しを着た一人の美少女が食卓を丁寧に布巾で拭いていた。

「あ!そうか………そういや昨日から茜が居るんだ……。」
昨日の出来事が回想され、梛は自分に仕えると言った氏神の女の子を思い出した。目の前でせっせと食卓拭きに勤しんでいる少女………茜だ。

「あ!ようやく起床なさいまいたね。おはようございます!梛様。」

「あ、ああ……おはよう。」
明るく澄んだ挨拶なんて初めてと言っても良い梛は、恥ずかしさと戸惑いがあったが、なんだか嬉しかった。務めて明るく素っ気無く振舞うと、安堵が心に染み始め、再び眠気が蘇ってきた。

「ふあぁ〜……それじゃあ俺はもう少し寝るよ。」

「あ!梛様、折角起きたんですから……二度寝はいけま……。」
部屋に戻ろうとする梛を茜は慌てて引き止めようと梛の正面に立った。が、正面から梛の全身象を視界に入れた瞬間、茜は絶句した。

「二度寝は何?………ん?茜?」

「あ、あ、あの、梛様……その……ふ、ふ、服を……。」

「服?」
梛は自分の姿を確認した……トランクス一枚……後は裸……。
そして茜のあの慌て様……。

「うわーーー!!悪い!こんな格好で!!」
梛は慌てて何故か胸を隠した。咄嗟の事で思考回路が上手くリンクしていないのだ。一方の茜は顔を真っ赤にしてオロオロと涙目でうろたえている。この状況はマズイ。悠良にだけは目撃されてはならない……そう直感で悟った梛は一目散に部屋を目指そうと第一歩を踏み出したその時……。

「ふわぁ〜、何だよ?朝っぱらから……っておお!!梛!お前、いきなり人前で?!」
最も危惧していた事態が起こってしまった。悠良は目の前に佇む裸同然の弟とそれを艶っぽく染まった頬で見ている茜に対して目をキラキラとさせている。梛は頭を押さえ、その場に座り込んだ。

「幾ら悶々としてるからって、いきなり人前ってのは、無いんじゃない?」
嘲笑気味にニヤリと頬を緩ませ、悠良は梛の肩をポンと軽く叩いた。

「違うって!俺は何も茜にはしてねえよ!!」

「ハイハイ、分かった分かった!ったく冗談も通じないのかねぇ……姉さんは悲しいわよ!」

「わよとか使い慣れない言葉使うなよ!…はぁ…最悪の寝覚めだよ……。」

騒がしい一日が始まった………。
朝食を摂り終ると、茜はチャチャッと無駄の無い動作で片づけを始めた。悠良はテレビの芸能ニュースを見ながら一人でツッコミを入れていた……梛はそんな二人の対照的な姿を見て変な感心をすると、洗い物をしている茜の所に向かった。

「大変じゃないか?悠良姉は良く食うからなぁ……。なのにあんな体型を維持してんだ…。バケモノじゃないかなぁと俺は思うな。」
姉の日頃の鬱憤を晴らす様に小声で愚痴る梛を茜は微笑みながら見ていた。
「ええ、大丈夫です……それにしても梛様は余程お姉さんがすきなんですね♪」
悪戯っぽく笑う茜は何とも可愛らしかった。悠良も容姿で言えば非の打ち所が無いのだが、あの性格がそれを妨げおり、梛には茜の方が可愛く映った。

「茜って見る目ないな。俺と悠良姉の何処をどう見たら仲が良いって言えるんだよ?」

「さぁ、どこでしょうね♪」
何だか心が温まる会話……彼女がいたらこんな風に毎日を過ごすのだろうか……そんな事を考えながら、梛は茜との会話を堪能していた……と、不意にある事が想起された。彼女は人間じゃない……『氏神』と呼ばれる神様………自分との関係はあくまで主従関係……。梛は少しだけ心が痛くなった。茜は自分をただの仕えるべき主人としてのみ見ているんだろうか……。そんな不躾な質問を投げそうになったが、寸でのところで理性が蘇り、咽元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。窺う様な視線で茜の横顔を覗き込み、梛は憶測を振り払った。そう、茜は新しい家族なんだ。
出会いは奇異なものだが、これも縁(えにし)、楽しけりゃなんでもいい!……そう思い込む事にして、大きく深呼吸をした。

「どうないました?」

「何でもないよ!さてと、そう言えば今日は日曜だよな……。」

「そうですが、それが何か?」
訝しそうに首を捻る茜に素っ気無い相槌を打つと、梛は部屋に向かって歩みだした。

「それは後のお楽しみだ!ちょっと着替えてくっから、それまでに洗い物、終らせといてくれよ!」

「は、はい!」
事態を把握出来ずに少々困惑気味の茜に、それまで某有名歌手の泥沼離婚にツッコミを入れていた悠良がにじり寄って来た。

「茜、良かったね。アイツがああやって着替えに行くときってのは九割方、外出する気だよ!しかも茜に着替えが終るまでに洗い物終らせろって………デートに誘われたんだよ♪」
ニッコリと屈託の無い笑顔を茜に向け、悠良はウンウンと首を縦に振った。茜は数瞬、悠良の言葉を咀嚼すると、急激に顔が桜色に染まり始めた。

「え!?デ、デートですか?!」

「そ♪デート!」
混じり気の無い答えを返すと、悠良は再びソファーに腰掛け、芸能ニュースに目を光らせた。一人ポーっと上気した顔で茜は気も漫ろと言った様子で洗い物を片付けた。頭にはデートの三文字がグルグルと回り、心は無意識に高く跳ねた。すると、

「お!ちゃんと終ったじゃないか。それじゃ、今日は俺がこの町を案内すっから、付いて来な♪」
黒いシャツに手にはブレスレッド、首からは流行のネックレスが掛かり、裾が幾分か広い七分丈のカーゴパンツを穿いた梛が茜を呼んだ。元々容姿・スタイルの良い梛にはその格好が良く似合っており、モデルの様なその出で立ちに茜は思わずドキッとしてしまい、その姿に見惚れそうになっていた。

「なにボケーっとしてんだよ?ホラ、行くぞ!!」
咄嗟に我に返ると、茜は慌てて梛の後を追った。しかし焦りからか気持ちに体が付いてこず、派手に転倒してしまった。

「いったー………。」

「だ、大丈夫か?!」

「だ、大丈夫です……エヘ、エヘヘヘヘ……。」
恥ずかしそうに笑うその仕草と笑顔に、梛は思わず胸が高鳴った。

「アハハハハ、そんなに焦んなくたって、梛は逃げないよ!……あ!そうそう、梛!絶対に襲うんじゃないよ♪」

「当たり前だ!!」

「やっぱ冗談通じないねぇ……ま、頑張ってきなよ!しっかりと町案内してきな!」

「おう!任せろって!んじゃな、悠良姉!」

「期待しないでいるよ!」

嘲弄しながら見送る悠良を背にし、梛は茜を連れて町案内へと出かけた……。
―梛と茜は出会ってまだ十数分……。にも関わらず同じ帰路を並んで歩いていた…。何でも茜は【氏神】という神で、霊力を持った人間に仕えるのが使命だという……。古くから主の器を探していたらしく、梛がその器に当てはまるらしく、茜の主人となる事になった。一方的に……。

「あのさぁ、茜は神様なんだろ?……てことは霊力を持った人間にしか見えないのか?」
素朴な疑問を梛は何気無くぶつけると、茜をチラと見遣った。

「はい。詳しくは霊力者にのみ……ですけど。」

「霊力者?」

「はい!霊力者とは霊感や霊力が際立って高い人間の事です。
霊だけとコミュニケーションが取れるのは【霊感者】って言うんですよ。」
ふーんと感心気味に頷くと、梛は次なる疑問をぶつけた。

「で、氏神って神様なのに何で人間なんかに仕えるんだ?」

「神様と言っても、その地位や階級は様々ですから…。普段、神様と呼ばれているのは私よりも遥かに高貴な神なんです。私達氏神は【従士神】という霊力者に仕える事で神としての本領を発揮するタイプなんです。」

「そうなんだ……。じゃあさ、茜は初めから俺を待っててあんなトコに居たワケ?」

「は、はい……。【元始開闢天神】様に時期が来たとの命を受けましたので……。」

「元始開闢天神?」

「はい。私達氏神をお創りになられた最高神でいらっしゃいます。」

「なるほど……で、時期って?」

「それは……分かりません……。」

「最高機密って奴?」

「恐らく……時が来れば何れ分かるとの事らしいです…。」

「時……ねぇ……。」
頭をポリポリと掻きながら、梛は頭の中で現在の状況を整理していた。俄かには未だ信じられないが、茜が嘘を吐いている様にも見えない……ここは自分の勘を信じようと英断すると、梛は改めて立ち止まり、茜に踵を返すとニコリと微笑んだ。

「ま、これも何かの縁なんだろうよ……。茜の目をみりゃ嘘じゃないって分かる気がするしな。会って間もないけど……ヨロシクな!!」
ギュッと茜の手を握ると、梛は照れ臭そうに鼻を掻いた。

「梛様……。」
茜は嬉しそうに顔を綻ばせながら梛の顔を見つめた。

「な、なんだよ?そんなに見るなって……ほ、ほら!行くぞ!姉貴にこの事報告しないといけないし……そ、それに、何よりも今俺は独り言を言ってる様にしか見えてないんだから……変態扱いされちまうだろ?!」

「はい!」

……こうして、梛と茜は出会った…。神とそれを従える霊力者……。梛にとっては俄かには事態を飲み込めていなかったが、退屈せずには済みそうだった……。普段の味気の無い虚無な日常に哀れみを持った神様がスパイスを持ってきてくれた……。そう解釈をし、一応の納得に行き着いたのだ。暫く談笑を交わしながら歩みを進めている内に、いつの間にか姉と二人で住んでいる出雲の自宅に到着していた……。

「さてと、ここが俺の家!んでもって姉貴の家でもある!つまり、茜は今日から此処で暮らす……でいいんだっけ?」

「はい!お世話になります!!……ところで、お姉さんがいらっしゃるんですか……?」

「そうなんだ、口うるさくて大雑把なのが一人……。」
途中まで意気揚々と話していた梛の声が突然に消え入るような声になった。茜は訝しそうに首を傾ぐと、その原因に気付いた。

「だーれが……口うるさくって大雑把だってぇ〜?え?」
梛の後ろに立っている女性は、拳をボキボキと鳴らしながら梛を静かに凝視していた。容姿はとても美しく、喋り方からは想像も付かない程である……。背丈は梛よりも低いものの、放つ威圧感が凄まじく、梛が小さく見える……。

「い、いや……何でもない……。」

「ふ〜ん……ま、許してやるか…っておや?見かけない娘じゃないか……着物なんか着ちゃって……何?アンタの彼女?」
野卑に笑いながら女性は梛の肩をバンバンと勢い盛んに叩いた。

「いってぇ!!……違うって!!彼女じゃねえよ!悠良姉!!」
悠良…それが女性の名であった。【出雲 悠良】、梛の実姉であり、霊力者でもある……容姿は抜群に良く、スタイルも申し分が無い……。性格の粗暴さを除いては……。

「じゃ、何だってんだよ?!」

「ゲホゲホ……茜は【神様】だ!!」

………周囲の空間が一気に凍りついた様に静まり返った…。悠良自身も硬直して固まっている……。

「は?……何だって?」

「だから!茜は、出雲の姓に宿った【氏神】なんだよ!!」

「…………。」

「………悠良姉?……。」

「………。」

「……ダメだ。」

―三十分後……。

「アッハハハハハハ!一時は梛のアホがエスカレートしたと思ったよ!確かに茜ちゃんからは霊力を感じるよ!にしても……梛の【氏神】なんだよ!の必死な顔……プッ…プププ…アッハハハハハハ!!」
茜本人からの説明に漸く事態を把握した悠良はすっかり茜と打ち解けていた。

「クスッ……悠良さんって面白い方ですね♪梛様。」

「そういうのは大雑把でガサツって言うんだよ!」

「ハハハハ、ボヤかないボヤかない!それに、アタシの事は悠良でいいよ!これから一つ屋根の下に暮らすんだから、他人行儀な呼び方はどうも苦手でね!」

「はい!分かりました。」

「あとさ、梛に仕えんのが茜の使命ならアタシはとやかく言わないけど、気をつけなよ!ああいう年頃の男は狼だからな♪」

「バ、バカ!!何勝手に俺が茜を襲うみたいな展開になってんだよ!?」
顔を紅潮させて焦る梛に悪戯な含み笑いを浮かべながら、悠良は身を捩じらせてふざけた。

「きっと激しいだろうな〜、なんせ溜まってっから♪」
その言葉に反応する様に茜の顔は急激に赤味を湛え始めた。耳まで真っ赤に染め上げると、恥ずかしさに耐え切れなくなったのかその場にへたり込んでしまった。茜のあまりの恥ずかしがり様に流石に反省をしたのか、悠良は気まずそうに茜に近寄った。

「悪い!冗談だよ!!アイツにそんな事をする様な教育は施してないから安心しな!」

「はい……。」

「ホラ見ろ!!大体、悠良姉はデリカシーってモンがねえんだよ!女の癖に平気で下ネタとか言いやがって……しかも、俺をネタにすんな!健全な高校生に!!」
ここぞとばかりに梛の猛反論が開始されるかと思ったのも束の間…悠良は茜の顔に正常さが戻って来るのを確認するや否や、

「ま、初体験が神様ってのも悪くないんじゃない♪な?梛♪」
梛の紅潮した様子を嘲弄しながら二階の自室へと上がっていった。茜の顔は再び真っ赤に染まり、力無く床にへたり込んでしまった。
とんでもなく気まずい雰囲気を残して居間で二人きりになった梛と茜……二人ともさっきの悠良の言葉が頭をグルグルと巡ってしまい、恥ずかしさでとても会話できるどころじゃなかった。

「チクショー……あのガサツ女〜!!絶対この借りは返すからな〜!!」

「あ、あの……梛……様。」
梛は不意に茜に呼ばれ、思わずドキリと動揺してしまった。

「な、なんだ?」

「襲わないで……下さいね。その……心の準備が出来てからで無いと……そのぉ……。」

「だぁーーーっ!!な、何言ってんだよ!?襲わないって!!それに心の準備とかいいから!!」

「え?しなくて良いんですか?」

「あれは姉貴の悪戯だから……気にする必要は無いんだよ。」

「そうだったんですかぁ♪フフフ、やっぱり面白いです♪悠良さんは……。」

「ア、アハハ…天然ね……ハァ……。」
蒼く爽涼とした空に浮かび漂う白雲の波…。出雲 梛(いずも なぎ)は窓の外に映える秋景色の安穏さに、意識も虚ろに視線だけを送っていた。

「いいよなぁ…こういうのを“風情”って言うんだろうな…。」
感慨深気に呟くと、梛は背後に雑念の元を感じた。

「なーにが“風情”だよ。柄にも無い事言っちゃって…。」
振り返った視線に入ったのは、幼少期より梛との交友関係にある
「夏谷木 修輔」(なつやぎ しゅうすけ)だった。修輔本人は、梛との関係を親友と自負していたが、梛は只の腐れ縁と言い切っている。

「なんだ、修輔か…。悪いがお前の駄弁には付き合わないからな!俺は今、癒されてんだから…。」

「つれない事言うなよ!良い知らせを持ってきたってのに…。」

“良い知らせ”…どうせロクでも無い事だろうと、半ば呆れ気味に梛は修輔を一瞥した。過去に“良い知らせ”と修輔から聞いて良かった試しは一度も無いからだ……。

「何だ?その顔は……。さては俺の事信用してないな!!」
梛の呆れ半分、眠気半分の表情に不服らしく、修輔は眉を吊り上げ怒り口調で梛に詰め寄った。

「当たり前だ…。お前の“良い知らせ”は今んとこ100%ハズれてるし……。」
一方の梛は修輔の不満など全く気にする様子も無く、さらりと言ってのけた。その表情には“自分の胸に手を当てて聞いてみろ”と示唆されていた……。暗黙の了解と言う奴である……。

「確かに……。」
暫く過去の“良い知らせ”を思い出していたのか、突然ポンと手を叩くと、修輔は大きく頷いた。自覚症状はあるらしく、苦笑いの浮かんだ顔で修輔は鼻の頭をポリポリと掻いた。

「でも、今日は本当だって!!…なんでも今日はもう学校終わりみたいなんだよ!」
腰に手を当て、自信満々に大仰とした態度を見せると、修輔はさっきまでとは打って変わってニヤっと野卑に笑った。

「これは先生に聞いたんだから、間違い無いぜ!!」

「分かった分かった……で、その理由は?」

「もちろん知ってるぜ!今日は都内の教育委員会の主催で、教職員の研修があるんだってさ。……ていうかさ、梛は嬉しく無いのか?学校が昼から休みになるってのに……。」
修輔は不思議そうに梛を見遣った。普通の生徒は大喜びで午後のスケジュールを計画、相談し合うところにも関わらず、梛は吉報を聞いても微動だにしていない……。

「早かろうが遅かろうが、何も変わんないだろ?早けりゃ特別に何か起こるワケでも無いしな……そうだろ?」
梛はフッと微笑すると、手をヒラヒラと力無く振った。

「そ、そりゃあ……そうかもしんねえけど……。」
梛の冷静かつ尤もな正論に、反論する術を失った修輔は、言葉を詰まらせたまま苦し紛れに、

「あ!そういや俺、今日バイトだった!!…じゃあな、梛!」
そう言いながら走り去って行った……。教室から逃げる様に走って行く腐れ縁の友の背中にチラと視線を向け、梛は満足そうに背伸びをした。修輔が教室を飛び出したのと時を違わずして、修輔の情報通り、下校となった…………。

―下校途中の何も変わらない常套(じょうとう)な景色…。
木々揺れは、秋風になびいて幾分か鮮やかさを衒っている…。
時刻はまだ二時を半時程過ぎたばかりで、秋の涼日とは言え、陽射しは意外にも強く、歩いているだけで、じわりと汗を掻く程であった…。そんな残暑の陽射しの下、梛はお決まりの下校コースを、お決まりの足取りで帰っていた。

「あ〜……。秋だって言うのに暑いなんて…。異常気象だな、確実に……。地球もヤバイんじゃないの?」
汗の滲む額を手で拭うと、梛は独り言に毒を含ませ、トボトボと見慣れた住宅街を抜けていった。淡々とした足取りで住宅街を抜けると、今度は人気の少ない、杉や檜の多く見られる細い路地に入った……。そこからは都内とは思えないほどの田舎溢れる景色が広がっており、梛は路地の途中にある脇道から続く神社を抜けて時間短縮をするのが日常だった。

「よし、時間短縮しとくか……。」
通り過ぎる顔見知りの老人達に軽く会釈をしながら、梛は神社へと向かった。帰宅時間が短縮出来るのが立ち寄る大きな理由なのだが、梛は霊力を子供の頃から備えており、その霊力が感知する神社の雰囲気に不思議な物を感じており、それが好きだという事も理由には挙げられた……。足取りも軽く、境内まで僅か数分で駆け上ると、梛は得意げに両手を挙げ、鷹揚とした声で叫んだ。

「おっしゃーー!!新記録達成!!」
殊の外早く着いたらしく、梛は達成感に顔を綻ばせていた。と、
不意に何かの気配が梛の霊感に触れた。それまでの笑顔はサッと消え、緊迫感が梛を襲った……。恐る恐る気配の方へと踵を返すと、そこには…………。

「お、女の子?!」
が居た…。それも容姿端麗で清廉潔白……艶やかな着流しを身に纏い佇むその光景は、梛を魅了した……。

「おーい、そんなトコで何やってんの?」
梛は思わず声を掛けてしまった。すると、その少女はクルリと梛の方へ踵を返すと、ニッコリと微笑むと、ゆっくりと梛の方へ近づいてきた。

「ちょ、ちょっと……君?」
近づいて来た少女は、スウッと白く細い手を伸ばし、次の瞬間には梛の手を握っていた…。突然の事に動揺を隠せない梛は、身動いだまま、ただ顔を紅潮させていた。が、

「ずっと、探していました……。」
その言葉が梛の耳に届いた瞬間、梛は動揺から疑問へとその感情を変えていた。

「ずっと……?俺は今日、初めて君と会うんだけど……。」

「はい!……初対面です。でも、私は貴方様をずっと探していました。」

「…………。」

「私の名前は【茜(せん)】です。本日より御主人様で在らせられます梛様に仕えさせて頂きます!」
屈託無く少女は満面の笑みを湛えて梛を見つめた。梛は全く事情が飲み込めずに、ただ呆然としていたが、先の茜の言葉を咀嚼すると、梛の顔は再び紅潮した。

「な、ななな、何だってーー?!何で?君が?俺に仕えるんだよ?……会ってまだ数分じゃないか……。」

「私は、氏神……古来より【出雲】の姓に宿りし神です。」

「へ?……今、何と……。」

「ですから、私は神様です!」
辺りに暫しの静寂が流れた…。梛はその頭をフル回転させ、事態把握に努めた…と、梛は自分の霊能力の事を思い出した。そう、自分には霊や神……つまり人ならざる存在とのコミュニケーションが出来る……。謎はすべて解けた……。強引ではあるが、梛には現在の状況を理性で理解するには、そう考えるしかなかった。

「で、何で俺なの?出雲なんて一杯居るだろうに……。」

「それは……出雲の中でも、梛様が一番強い能力をお持ちですので……。」

「そうなのか?……はぁ……で、仕えるって?」

「はい!今日からは梛様のご自宅に一緒に住んで、身の回りの事とか、色々させて頂きます!」

「同棲すんのか?!……マジかーーーー!?」

「はい!マジです♪」
元気よくお辞儀をすると、茜は再びニッコリと笑って見せた。
イマイチというか殆どが理解できない梛ではあったが、内心では美少女に仕えてもらうのも悪くは無いなという思いも俄かにはあった。暫く考え込むと、一つの結論に達した様子で、ポンと手を叩くと、梛は茜を見遣った。

「仕方ない…姉貴に見てもらうか……。」

「梛様?」

「そ、それじゃあ、家に来てもらえるかな?」

「…はい!」
日は半分ほど傾き、変死体に群がっていた野次馬達も元の一般町民へと戻っていた……。

「ハァハァハァ……やっと着いたぜ…荷物は確かこの辺に…あ!あった!」

一番乗りで繁華街に着いたアクイラは、噴水の傍らに置いてある見覚えのある荷物を見つけた。小躍りしながら荷物に駆け寄り、入念なチェックを行い始めた頃、残りの面々が疲労を浮かべ追い着いてきた。

「ゼェゼェ……ったく!何で荷物を置いてきちまったんだよ…。
お陰で余計な体力を消耗しちまったじゃねえか……。」

愚痴を零しながらザイバックは不機嫌そうに荷物に近づいた。
ケイナスも自分の荷物を手に取ると、中身を検査し始めた。

「ふぅ、拙者のは無事でした。」

安心した様に顔を綻ばせ、ケイナスはその場にペタリと腰を落ち着けた。

「ボクのは……うん!無事だったみたい♪」

エレンブラの荷物も無事だった様で、ニコニコと嬉しそうに、レムに荷物を見せている。

「巫女様の荷物は無事ですよ!もちろん、私のもね♪」

ニンマリとアクイラがOKサインを出した。シャルはその合図にクスっと笑うと、ホッとした様に力なく座り込んだ。

「さて、じゃあ俺のは……うん、何とも無い…。」

レムは自分の荷物に異常が無いと確認すると、シャルに素っ気無く質問をした。

「なぁ、シャル……アクイラが言っていたんだが、神通力って何だい?」

「神通力は、魔素を感知して頭痛や腹痛として教えてくれる力なの。魔素の濃度が高ければ高いほど、結果としては私は苦しむ事になる…かな?」

微笑んではいるが、レムにはそれが苦痛を誤魔化す為の笑いに見えた。これから先、彼女は苦しみ続けるのだろうか……そんな事が頭を過ぎる…。

「でも、心配しないで!それはこの姿だからなの……静寂の巫女は成人するまで、身を確実に護るために防御能力が突発的に高いのよ。だから…ゲートを開いて、ギエルハイムに戻って元の姿に戻れば神通力は無くなるわ……。」

「そうか……でも、辛かったら言うんだ。俺達が必ず助けるから。」

シャルの顔に歓喜が浮かんだ。ニッコリと満面に笑みを湛え、シャルは大きく背伸びをした。

「ありがとう!……。」

「お互い様だよ!」

二人はその場に寝転がり、空に向かって大きく笑った。

「うわ!ズルイよシャルさん!ボクも!」

嫉妬を露にしてエレンブラはレムの横に急いで寝そべって同じように笑った……。

「そいじゃ、コッチは男三人で笑いますか?」

アクイラが冗談めいた声色で座った。

「お!いいねぇ!おい、ケイナス!」

「い、いえ…拙者は遠慮させて頂きます。この様に人通りが行き交う場所で寝そべって笑うなどと……武士としてはいたし兼ねる……。」

「冗談だよ冗談♪そんな気持ちの悪い真似なんてしないって!」

本気で躊躇するケイナスを見て、アクイラは野卑に笑いながら言った。ケイナスはホッと胸を撫で下ろすと、

「では、拙者は今晩の宿を探してきます故、失礼…。」

イソイソと宿探しに向かった。ケイナスを見送ると、一同は和やかな雰囲気をキリッと変えて、今後の進路を模索し始めた……。

「さてと……こっからどうすんだ?」

ザイバックが腕を組んだまま空を見上げて呟いた。

「そうだよね……ボク達、旅するって言うのは良いけど、計画性に欠けてない?」

「そうかもね……私もそう思うな。」

女性陣の意見はピッタリだった。ザイバックは益々感慨を深めながらうんうんと唸っている。

「私はここの地理はさっぱりだから、何とも言い様が無いんだよねぇ…。」

アクイラがヒラヒラと降参のポーズを取る。

「そうだな……。」

レムの頭には二つのルートが浮かんでいた。先ずは一度王都へ戻り、事の全てを報告し、王の助力を懇願するルート……もう一つは王へは全てを秘密裏にし、ここから西の山間部を抜けて取り敢えずの町を目指すルート……。結局一人では決め兼ねたレムは、この二つのルートを提案してみた。すると、

「俺は王都へ行くルートに賛成だな!上手く行きゃ王国の船を使えるかもしれねえ…資金援助だって受けられっかもしれねえし。」

「ボクは山間部を抜ける方に賛成かな。シャルさん達が別世界の住人だなんて言っても、信じるとは限らないし、下手をしたらボク達は危険思想者だって思われて牢獄行きだよ!」

異見は真っ二つに分かれた。どちらも確かに納得のいく理由がある…。王都ルートは先ず信じてもらえるかが大きな焦点だし、山間部ルートは時間が掛かり過ぎる……。

「シャルやアクイラはどっちがいい?」

「私は……王都ルートかな……確かに危険ではあるけど、山間部を一々抜けているようなゆとりは無いと思うの。」

「アクイラも同じく!!ギエルハイムにゃ時間が無いんだよなぁ……なるべく時間が掛からずに済む方に懸けたいんだよ!」

「そうだな……巫女本人が王都行きを選んだんだから、一度王都へ帰って、全てを国王様に話そう。」

行き先は決まった。………王都への帰還……。そして全ての報告……。危険を孕んではいるが、シャルの使命達成への一番の近道と成り得るのも、このルートであった。

「そうと決まったら、明日にでも王都に行こうぜ!!」

「あれ?でもどうやって?」

「エレンブラ、心配は要らないよ。ここから数十キロ東に行けば、王都へ向かう船が来る港町に着く。そこで船を借りて王都へ行くんだ。」

「あ!なーるほど。」

「んじゃ、行き先も決まった事だし、今日はもう休むか!」

アクイラはスックと立ち上がり大きく欠伸をした。一同の体も大分疲労している……と、

「いやぁお待たせしてしまって申し訳ない!宿を見つけましたぞ!!」

ケイナスが両手を振りながら明るい声で叫んでいた。ザイバックやアクイラはそれに倍以上の声で返事をすると、ケイナスと共に宿に入っていった。

「そいじゃ、ボク達も行こうよ!」

エレンブラがシャルとレムの腕を掴んで歩き出した。

「やれやれ、エレンブラは元気だな。」

レムが皮肉っぽく笑った。それにつられる様にしてシャルもクスッと噴き出した。

「あーー!二人してボクを笑ったなぁ!レム!!今日こそはボクと一緒にお風呂に入って貰うからね!!」

エレンブラはムスっとしてそう吐き捨てると宿に一人足早に駆けて行った。

「いっ?!混浴だけは勘弁してくれよ!!おい、ちょっとエレンブラ!!」

レムは顔を赤らめながら慌ててエレンブラの後を追った。それを見送りながら、シャルは一人笑った。

「これが……温かいって言う事なのかな?……ずうっと……こんな生活が続けばいいのに……。」

沈み往く淡く錆朱色をした夕空を独り見上げながら、シャルはふと沈んだ表情に切な願いを抱いていた……。

「おーい!シャルも急いで!エレンブラの奴、君も一緒に入れる気みたいだ!!」

不意に届いたレムの声……シャルにはとても掛け替えの無い声に聞こえていた……。

「うん!直行くよ!!」

パンと頬を軽く叩き、嫌な暗い考えを吹き飛ばすと、シャルはニッコリと屈託の無い笑顔で、手招きするレムに向かって走って行った……これから訪れる運命の凄惨から逃れる様に……走り続け、辿り着く先に希望がある事を信じるかの様に……そして、レム達が、自分を信じてくれる仲間達が必ず奇跡を齎すと願いながら………。
―「イーシュの森」…そこは昼間にも関わらず、生い茂る木々に日光が遮られ、薄暗く不気味な空気を醸し出していた……。

「どこだ?!出て来い魔物!!」

レムは怒号を発し、腰の雪凪に手を掛け構えた。すると、その声に反応する様に、アクイラがエレンブラとシャルを抱えて走ってきた。

「やっと追い着いたぜ!あんまし単独で突っ走るなって……。」

息も絶え絶えにその場に座り込むと、アクイラは皮肉った。

「すまない……俺も気が動転してた様だ…。」

「ま、無理も無いか……コッチじゃ想像の産物だからな、魔物って奴は。」

アクイラが苦笑しながら言った。と、その時!シャルの顔が突然に強張り、その場にうずくまると、頭を抑えて呻き始めた。

「どうした?!シャル!!」

「巫女様!!神通力ですね!」

「シャルさん!!しっかり!」

「う……うぅぅぅ、くっ……直…近くに……。」

シャルはそう言うと、直近くに立っている巨木を指差した。一同に異様な緊張が走る……。すると、アクイラは思い切った様に手を振りかざすと、何かを唱え始めた。

「大空に鷹の意思を反芻せし我が力よ……全てを断つ真空の刃を以って応え給え……。【エア・ブラスト】!!」

ギュオオオオオ……アクイラの掌に目に見て取れる程の気圧の渦が集まり始めた。気圧の渦は次第に形を変え、鋸の刃に近い形のまま円形になると、凄まじい勢いで放たれた。

「チェックメイト♪」

ズバンッ!!……巨木はまるで紙切れの様に幹から真っ二つに裂けていた。あまりに現実から逸脱した光景にレムやエレンブラは言葉を失った。……これが、護り手の力……これが魔物が棲む世界で生きる人間の能力……。暫し見入っていると、不意にアクイラから声が飛んだ。

「レム!!巨木がコッチに倒れてきてる!!焼き尽くしてくれ!」

「何だって?!俺はそんな事……!!出来る…。」

「そうだろ?なんたってレイヴァンを吸収したんだ。炎の力はレムに宿ってるんだよ!」

そう……レムはレイヴァンを吸収した…つまり、レイヴァンの能力はすべからくして宿っている……自身に言い聞かせるとレムは静かに目を閉じた。

「灼熱の烈火に燃ゆる熱き血潮を権化とせり……。対峙せしものよ…灰と化せ!【バーニング・スプラッシュ】!!」

ゴオォォォォォォォ!!!!……真っ直ぐ巨木に掲げられたレムの掌が紅く光ったと思うと、次の瞬間、灼熱の業火の渦が噴射され、巨木は一瞬にして灰になっていた…。

「すごい…これが、俺が手に入れた力……なの…か?」

掌を見つめ佇んでいると、アクイラの声が響いた。

「ヤバイ!!後ろだ!!」

「なに!?」

咄嗟に振り返ると、そこには身の丈が三メートルを悠に越える巨大な生物がいた…。明らかに動物ではない、異形のそれは、赤々と鋭い眼光を効かせ、地響きにも似た唸りを上げてレムを睨みつけている…。レムはゾクッと背筋が凍るような寒さに襲われた。と同時に恐怖が心と頭を支配し、一歩も動けなくなってしまった。

「どうした?!早く距離を置け!!」

「だめ…だ……体が言う事を効かない……。」

魔物は、その押し潰すようなプレッシャーと恐怖で満ち、レムの体を硬直させていた。アクイラはチッと舌打ちをすると、シャルとエレンブラを傍の木陰に隠れさせた。

「仕方ない……か。出来れば被害を留めたかったが……そうも言ってられないみたいだし……。」

何かを納得すると、レムに向かって指示を出した。

「おい!そっから動くな!!一発でソイツを片付けるからよ!」

「分かった……でも、なるべく早く頼むよ……。」

「分かった!!」

アクイラはふうと大きく息を吐き出し、静かに目を閉じると、両腕を眼前で交差させ、再び何かを唱え始めた。

「汚れ無き大地と静寂に澄んだ大空よ……汝の均衡を乱せし異形を浄化すべくその御心の力、賜りたもう……。」

キイィィィィーーーーー……甲高い音が場を包んでいく…。アクイラの足元からは青白い光が差し込み、体の周りを稲光が走り回った。バチバチと弾ける音が辺り一帯に広がり、レムは肌に電気の様な痺れが走ったのを感じた。―と、

「フフフフ……ヤハリソウカ。」

魔物の口から言葉が発せられた。驚愕にレムは目を見開き、魔物を見据えた。アクイラも思わず詠唱を止めた。

「チッ……お前、【ゴーレム】か…。」

アクイラが厄介事に出くわした様に顔をしかめた。

「ゴーレム?」

「そうだ、魔物は基本的には喋れないんだけど、一部の例外はこうやって話せるんだよ。ソイツはゴーレムって言う、魔力で動いてるいわば人形だな!」

「フン、小賢シイ……オレハ人形デハナイ!オレハ魔物ダ!」

明らかな憤怒を浮かべてゴーレムは怒号を上げた。

「ヘイヘイ……じゃ、その魔物のゴーレムに聞く。何でアウヴァニアに居る?」

「決マッテイル……。ギエルハイムハ既ニ大陸ノ七割ガ魔素ニ侵食サレタ!アマリニモ魔素ガ膨大ナ為ニ、アウヴァニアニ染ミ出シテ来テイルトイウワケダ。」

不安は的中した。アクイラの予想通り、魔素は既にギエルハイムに収まりきれなくなりつつある様だ……。レムの一番恐れた事態が、その扉を開き始めている……。レムは愕然とした。そして、やり場の無い焦燥感に駆られた……。急がなくては……。

「で、巫女様を殺して、俺達を阻止しようって寸法か?」

「ソノ通リダ!!貴様等皆殺シダァァ!!」

グンと腕を振り上げるとゴーレムは動けないレムにその堅固な拳を叩き降ろした。

「レムーー!!」

シャルの悲鳴にも似た声が響いた。と、その時……ゴーレムの腕がググっと持ち上がった……レムだ。

「俺は迷わない……例えそれが非現実的な事だろうと関係無い……シャルを……シャルを殺そうとする奴は例え神であっても俺は迷わず戦う!!!」

「ナ?!ソンナ馬鹿ナ!!」

「残念だが、俺はお前を許すわけにはいかん。巫女の護り手として……シャルの仲間として!!」

腕を押しのけると、レムは雪凪に手を掛け、詠唱を始めた。

「フフフフ、剣ナド効カヌゾ!」

「地獄の業火よ……我が剣に宿れ……今此処に!!【マグマヴァサール】!!」

雪凪は次の瞬間、灼熱の炎を帯び、レムは詠唱終了と同時に居合いを決めた。時間にして僅か数秒の事だった……。

「フン、ダカラ言ッタダロウ!!効カ……!!!!!」

グォォォォォ!一瞬にしてゴーレムは火柱に飲み込まれ、消滅した。辺りに暫しの沈黙が流れる…と

「ひゅ〜!凄いじゃねえの!」

突然、横からザイバックの声が聞こえた。

「ザイバック!?一体何処にいたんだ?」

「わりいわりい!ケイナスと二人で迷っちまって……。にしても、あれがバケモノか……あ〜あ、俺も一戦交えたかったぜ……。」

心底残念そうに俯くザイバック……。彼には相手が魔物だとかは関係ない様だ……。

「いや、しかし見事!拙者も教えた甲斐があります!」

ケイナスが数秒遅れで追い着いてきた。シャルとエレンブラも安心し、木陰から身を出し、レムの元に駆け寄ってきた。と、アクイラが突然思い出したように大声を上げた。

「あーー!!しまった!荷物を繁華街に置きっぱなしだ!!」

一同「なにぃーーーーー!!!」

………こうして魔物を倒したレム一行の旅は続くのであった。

「ボク、パンツ取られたかもーー!!」

「拙者もパンツが…」

「んなわけあるか!いいから走れーー!」

    
―カルムナール繁華街………旅の一行は立ち往生を喰らっていた。町人に諮問を求めると、今朝方、カルナムールに程近い【イーシュの森】にて不可解な動物の死骸が発見され、それを見ようと集まった野次馬が道を塞ぎ、交通難が生じていると言う…。

「変な死骸ねぇ……まさか、魔物じゃないよな?!幾らなんでもこんなに早く魔素が染み出るハズは無い……。」

アクイラは懸念を益々深め、苦い色を美しい顔に浮かべた。シャルの表情にも陰りが見られ、不安そうに胸を押さえ、騒擾(そうじょう)とした野次馬の群集を見つめている。

「行ってみよう……。本当に魔物の仕業かどうかは死骸を見れば一目瞭然のハズ……だろう?アクイラ。」

「あ、ああ……魔物に殺された者は体中に濃淡な紫色の光を纏うんだ。魔物から発せられた魔素が死者の魂を食い尽くしているとも言われてんだけどな。」

アクイラは苦笑して手をヒラヒラと振った。

「となれば、やはり実際に確認してみるが早いでしょうな。もし、死骸に光があれば、我々は魔物を成敗せねばなりませぬ。」

ケイナスが静かに低く言った。漆黒の瞳には微かだが、戦いに身を置く者としての戦闘への炎が見て取れた。

「だなっ!!もしかすりゃ、不可解な死骸って奴も噂の誇張かもしんねえし、だってよ、野次馬も結構あっさりと帰る奴が多いぜ♪」

ケイナスの言葉への賛成の意も明瞭に、ザイバックは玩具を得た子供の様に期待と興奮の色を浮かべ、一同に目配せした。
軽率だぞとレムに諌められ、数瞬の時こそ慎んだものの、僅かな空白を経るや否や、レムの諌めも元の木阿弥となった。

「大丈夫だって!シャルさんはボクらが護るし、町の人にも被害は出させないから……。」

「あ……!」

暫く遣り取りを傍観していたエレンブラは、シャルの震える肩をそっと抱くと、ニッコリと笑って見せた。母に抱かれている様な温かさがシャルの体を、そして心の不安と緊張を包み、シャルは自然と己が内に侵食していた緊迫感や懸念、そして不安が取り除かれていく………そんな優しい感覚で満たされていくのを感じた……。と、その様子をじっと伺っていたアクイラは、何やら感慨深く首を傾ぐと、何かしらの答えに行き着いた様に次の瞬間には目を見開き、消え入りそうな声で呟いた。

「やっぱ……【副作用】か……。」

隣に居たレムは、その微かな声を聞き逃さなかった。シャルをチラチラと目で追いながら考え込むアクイラに近づくと、

「アクイラ……今言った【副作用】とは何の事だ?シャルに関係があるんじゃないか?…。」

あくまでも優しく、しかしその言葉から伝わってくる物には有無を言わさぬ覇気が内包されていた。アクイラは一瞬、誤魔化し躊躇したが、無駄だと悟ったのか、はぁと大きく溜息を吐くと、レムの耳元に口をあてがった。

「今から話す事は巫女様には絶対内緒だぞ。巫女様以外のヤツには後でレムから内密に伝えてくれ。……巫女様の姿が実年齢よりも若い理由は知ってるな?……そう、それはコッチで密偵活動をしながら本来の使命であるゲート開放を遂行する為、コッチの法律で一番規制が緩和されてる15,6歳の姿になって、より自由な状態にしておく……だな。」

「ああ、それは分かっている。」

「話を続けるぞ……最近の巫女様を見て何か気付かないか?」

「う〜ん……確かに、シャルは静寂の巫女に関連する事象に対し、極端に不安や自責を背負っている様な……そう、気負い過ぎている気がする……。」

「その通り!確かに巫女様の背負ってる使命は、世界そのものの命運を握ってる……不安になるのも、責任感に縛られるのも分かる……。でも、ギエルハイムに居た頃の巫女様はとても凛としておられ、不安や自責を制御出来ていた……。だが、今の巫女様はどうだ……制御どころか押し潰されそうになっていらっしゃる。」

不意にアクイラの顔に喪失感が浮かんだ。

「実はな、巫女様の様に実年齢よりも若い頃の姿に若年化(ミュータンス)する技術ってのは、ギエルハイムでも超高度な技術なんだ。成功例も著しく少ない。巫女様がまともにミュータンス出来た数少ない実証例の一つだ。但し、やはり失敗者と同様にして、欠損が生まれていたらしい……。」

「欠損?」

「そうだ、失敗した者の殆どは、何かしらの欠損が発生したんだ。例えば、腕だけが若年化してしまい、アンバランスな体型になったとか、記憶を全て幼児の頃に戻されたとか……。どれも社会不適合者として施設送りさ……。巫女様は欠損と言っても、元のお姿に戻れば消える軽症だけど、ただ、旅には大いに差支えがあるんだよな……。【心の脆弱化】……それが巫女様が負った副作用だ。強い使命感や正義感、そして不安や緊張に対して過度に弱くなるんだ……。最悪、そのプレッシャーって奴に押し潰されてしまって、廃人になる可能性だってある……。」

「そうか………。」

レムは静かに相槌を打つと、踵を返してシャル以外を呼び、シャルの副作用を言葉密かに伝えた。その間、アクイラはシャルと会話を交わし、シャルの気をアクイラに集中させた。話が終るとほぼ時を同じくして、レムも伝え終えた様子で、チラリと視線でアクイラに終了の合図を送った。

「それじゃ、ヨロシク頼むぜ!レム……。巫女様はお前を頼りに思ってる……。お前が掛ける励ましの言葉、労いの言葉は必ず巫女様を救う……。」

「分かった……。」

二人は暗黙の握手を交わすと、何事も無かったかのように談笑を交わしながら戻ってきた。

「決まったぜ!今からイーシュの森で魔物散策に行く!」

「みんな、本当に魔物が出現した時の為に、武器の携帯は忘れるなよ……。エレンブラとシャルは俺とアクイラに付いて来てくれ。」

「うん!分かった。絶対に護ってよね!二人とも。」

「レム、アクイラ……無茶はしないで…。」

「ああ、分かってる!」

「勿論ですとも!命は惜しいですから♪」

「と言う事は、拙者とザイバック殿が組むんですな。」

「ヘヘヘヘ♪刀と剣、どっちが早く魔物を倒せるか……勝負しようぜ!」

「フフフフ、望むところです!」

レム達は、野次馬の間を巧みにすり抜けると、死骸のある森の入り口に着いた。そこに横たわっていた動物は、鹿らしき物だったが、全身は濃淡な紫の光に覆われ、正に異形の様相だった……。背筋にゾクッとする悪寒が走る様な感覚にレムは顔を歪めると、

「行くぞ!これで魔物が居る事はハッキリした。早く見つけて倒すんだ。町の人に被害が及ぶ前に!!」

森の奥の一点だけを見据え、怒声にも似た声で叫んだ。辺りに散開している仲間達を一瞥し、全員が頷くのを確認すると、レムは風の様に森の中へと駆けて行った。それに続く様にしてザイバックとケイナスが走り出し、最後にアクイラがエレンブラとシャルを抱え、森へと走った。

「ちょ、ちょっと恥ずかしいから降ろしてって!」

「アクイラ!急いで!レムに追いついて!」

「恥ずかしいだの急げだの…注文は一個にしておくんなさいよ!」

エレンブラ&シャル「レムのトコに急いで!!」

「ヘイヘイ……。」

辺りの野次馬に騒然とした空気が流れていた……。こうして、レム達は魔物を倒すべく、森の中へとその一歩を踏み出した……そして、この行動こそが、彼等の運命の歯車に拍車を掛ける事となる………。

?へ続く…
「!……そんなに【魔素】は侵食してるの?」

「ええ!もう大陸の半分は【魔素】に食われました…。このままじゃギエルハイムが消滅するのも時間の問題です。」

「なんてこと………。他の二人の護り手は?」

「今はまだ合流できません。次期に巫女様の旅に参加すべく、コチラ側にやってきますので、ご心配なさらず……。」

深刻な面持ちで会話を交わすアクイラとシャル……傍から見ても、一刻を争う事態に直面している事を察しずにはいられなかった。

「レム……ボク達が頑張らなきゃ、シャルさんの世界は消えちゃうんだよね……。」

エレンブラがレムにしがみ付いたまま言った。レムも大きく頷き、決意と覚悟を新たにした。ザイバックやケイナスの表情にも真剣な色が浮かんでいる……。暫し辺りは異様な緊張感が張り詰めた……と、

「……とまぁ、そんなトコです♪それじゃあ、出発の前に、改めて全員自己紹介をしましょう!」

今までの緊迫した顔は一転、明るい顔に変わった。張り詰めていた緊張感はたちどころに消え、何とも不思議な男だと一同は思った。

「それでは、まずは私から♪私は【静寂の巫女】で在らせられるシャル様を護る【護り手】、ギエルハイムの【マイヤーニ】出身!25歳独身!!泣く子も黙るいい男!【アクイラ・メイヤー】だぁーー!!」

「………せ、拙者は【ケイナス・アデンバー】と申す者で、剣士であります。刀鍛冶で有名な【トウコク】の出であります。」

「俺は【ザイバック・ブレイブス】!!レムとは切っても切れない腐れ縁で繋がった、いわば兄弟のようなもんだ!【レンブラント王国】の【王国騎士団】の将軍をやってる!戦闘こそ俺のフィールドだぜーーー!!」

「ボクは【エレンブラ・シャルロット】。レムの許婚で、ザイバックとも旧知の仲なんだ。【レンブラント王国】の出身で、趣味はレムとの結婚生活をシミュレーションする事でぇ〜す♪」

「私は【シャル・アトワイル】……。ギエルハイムに巣食う魔物を封じるために生まれた【静寂の巫女】。ゲートを開き、幸福の力をギエルハイムに送り、魔素を打ち消す事が今の使命です。
みなさん、共に頑張りましょう!!」

「最後は俺か…。俺は【レム】。レイヴァンを吸収する前は【ケイス・アルムナス】として23年間生きてきた。この旅はギエルハイムだけでなく、アウヴァニアの命運をも変えるかもしれないと思う……。だから、みんな!!力を合わせ、必ずゲートまで辿り着こう!!」

改めて自己紹介を済ませた一同の心には、確固たる決意と覚悟が生まれていた。志気も上昇している……。

「でだ、一つ言っておくぜ!ギエルハイムの魔素はかなり増えてる。多分、魔素の一部は【エンベラスゲート】からコッチに染み出して来るはずだ。」

「魔素?エンベラスゲート?」

エレンブラが首を傾げ頭を抑えながら聞いた。ザイバックも同様に頭を抱えアクイラを見ている。

「そっか、知らないんだよなぁ……。【魔素】って言うのは魔物、つまりバケモノを生み出す素だ。魔素に人間の負の感情が加わると、実体化して魔物になる。【エンベラスゲート】ってのは
ギエルハイムとアウヴァニアを経由する俺達みたいな奴等がトランスポーテーションすんのに必要な門さ。」

「ト、トランポリ……???」

「ハハハ、トランスポーテーションだよザイバック!そうだな、簡単に言えば瞬間移動かな?」

「なるほど…。」

レムの不安は的中した……。アクイラの言っていること…それは魔物がアウヴァニアに出現するということだ。つまり、一般市民を恐怖に陥れ、虐殺を行う……そんな惨劇がこれから起こる可能性が十分にある事なのだ……。グッと拳を握り、レムは一刻も早いゲート開通を強く決意した。ザイバックやケイナス、エレンブラも同様の想いを強くしていた。……一方、シャルは顔色が優れない様子で、ずっと手を握り締め、思いつめた様に俯いていた。
アクイラは異変に気付いたのか、しきりにシャルに声を掛けた。が、シャルの様子は一向に変わらなかった。レムは、ゆっくりとシャルに近づくと、ニッコリといつもと変わらぬ笑顔を見せた。

「シャル…君が責任や罪悪感を感じる必要は無いよ。俺達が必ずゲートまで無事に、そして迅速に君を運ぶから……。君は希望を信じていてくれ。ギエルハイムを、アウヴァニアを救えるのは君だけなんだから。それなのにそんな切迫してたら、きっと救えるものまで救えなくなる……。」

レムの言葉にシャルの顔の緊張が解けていった。シャルは大きく頷くと、

「そう、だよね!私がいつも笑顔で希望を捨てなければ、きっと大丈夫だよね!!」

迷いの無い鷹揚とした声で言った。

「そうだぜ!!それでいいんだよ!」

「希望を捨てぬ限り、笑顔を絶やさぬ限り、勝機は常に我々にあり!ですな。」

「ボクも頑張るぞ!!」

「みんな燃えてるねぇい!それでこそ巫女様を護るチームってもんだ!!」

「シャル……頑張ろうな。」

「うん……。」

………アウヴァニア暦1200年 九月七日……静寂の巫女とその護り手達の旅は、始まりの鐘を鳴らした……。
―翌日……。まだ朝日も顔を出さない薄靄掛かった葵色の庭に、レムは一人佇んでいた。

「(今日からいよいよ全ての謎を解き明かす旅が始まる…。ゲートに行けば、きっと分かる筈だ……。俺に秘められし謎が…この世界の真の姿が……。)」

大きく深呼吸をして、レムは背伸びをした。肺に明け方のヒンヤリとした心地良い空気が入っていく……と、レムは不意に後方に気配を二つ感じ、背伸びを止めて気配に向かって踵を返した。

「よっ!やっぱ起きてたか。」

「やはり、これからの事を考えると…おちおち寝てはいられませんな。」

気配はザイバックとケイナスだった。レムはホッとした様に胸に手を当てると、にこやかに二人に手を振った。

「俺もさ。俺たちが同行する旅は決して一筋縄じゃ行かないハズだからな……。ギエルハイムに巣食う魔物達にとって、シャルは忌むべき存在であり、また、幸福の力を齎すゲートも邪魔なハズだ……。俺達の旅は魔物にとっては絶対に阻止したいもの……。
いくらアウヴァニアが平和だと言っても、それは多分今日までの話さ……。奴等は必ず俺たちを殺しに来る……。」

柔らかい顔は一変して真剣な面持ちに変わった。旅の中で常に狙われる命……平和なアウヴァニアでは想像も付かぬほどの危険と恐怖……それを今、彼等は感じていた。

「さて、そろそろ朝陽が昇る頃だ。シャルとエレンブラを起こして、朝食にしよう。」

レムが重苦しい雰囲気を掻き消すように明るく言った。ザイバックやケイナスもそれに呼応する様に明るく笑いを見せた。三人は朝食の準備をする為に、リビングへ続く通路を抜き足で通り過ぎていった。まだ、女性陣は寝ている……朝食が出来るまでは起こすまい……彼等なりの紳士的振る舞いのつもりだった。漸くの事でリビングに着くと、

「おはよっ!遅いね三人とも!」

「もう、朝食の準備はしてあるわ。」

……既に女性陣は起きていた……。しかも朝食の準備までしてある……。と、レムはふとエレンブラが気になった。目の前に居るエレンブラは昨日の事が嘘のように普段通りである……。

「エレンブラ……昨日の事は、大丈夫かい?」

エレンブラは少し躊躇った様にレムを見ると、次の瞬間には満面の笑顔で応えた。

「全然平気だよ!!……ってまぁ、少しはショックだったけど……レムになったってボクの婚約者だよ♪それに、かっこよくなったしさ!ほんとはまだ信じられない事も多いんだけど……レムがケイスだって事は信じられるからイイんだ♪」

「エレンブラ………ありがとう。」

「エヘヘ、照れるなぁ♪」

エレンブラは照れ臭そうにおでこを掻くと、そそくさとダイニングへ駆けて行った。

「な?俺の言った通りだろ!?俺達は深い絆で結ばれた仲間なんだからよ!今更、サプライズな秘密の一つや二つあった所で、愛想尽かすような下衆はいねえよ!な!エレンブラ!」

後ろから肩を組んで来たザイバックが得意げに言うと、エレンブラももちろん!と言った様に大きく頷いた。満足気にザイバックはレムの顔を覗きこむと、シャル、ケイナスを一瞥して、大きく笑った。

「ガーッハッハッハッ!最高の仲間ってのはこういう事だな♪」

それに呼応する様にあたりは笑いに包まれた……全員がザイバックと同じ想いであった……。

「さ、朝ごはん出来たよ♪今日から旅なんだから、精を付けなきゃね!」

「!!エレンブラ…知ってたのか?」

ザイバックが口に含んだコーヒーを噴き出した。

「もちろん♪シャルさんがボクもって言うからさ♪」

「シャル殿……。」

「そうよ。私が一緒に来てってお願いしたの……。愛する人や友人が危険な旅に身を晒すのを、黙って見送って帰りを待っているだけなんて……旅先で共に命を落とす事よりも遥かに辛いから………。」

シャルの顔にふうっと悲しみが浮かんだ。

「そうだな。行くならみんな一緒だ。」

レムはシャルの異変を感じたのか、不意に立ち上がって大声で言った。

「おう!レムの言う通りだぜ!」

単純な思考回路のザイバックはあっさりとエレンブラ同行を受け入れた。一方、ケイナスはまだどこか躊躇を見せていたが、ふうと小さく溜息を吐くと、

「そうですな……少々危険ですが、エレンブラ殿も同行させましょう……ただし!エレンブラ殿には旅の中で拙者の指導の下、護身術を身に着けていただく事が条件です!」

護身術体得を条件に、自分の中で納得をいかせたようだ。

「わかった!ボクも足手纏いにはなりたくないから。」

エレンブラ俄然やる気である。こうして、旅の面が揃ったのであった………。

―朝食後、各々はリビングで出発前の談笑していた。これでこの屋敷も暫くは空き家になる……。レムは今まで何気なしに過ごして来た屋敷に、改めて振り返ってみると懐かしさを覚え、心なしか視線は屋敷を見回していた……と、その時、不意に大きな気配をレムは感じた。リビングの中央に、明らかな“異様”が感じて取れる……。他の面々も次々に気配に気付いたらしく、談笑を止めて神経を集中させた。

「まさか……敵か?」

「いいえ、違うわ……この気配は……。」

シャルが次の言葉を紡ごうとしたその時、リビングの中央の空間が捻じ曲がったかと思うと、歪みの中から一人の優男が現れた。
シャルを除いては、その現実を大きく逸脱した光景に目を奪われ、ただ立ち尽くしていた。優男は地面に足を着けると、片手を振って空間を修復させた……エルバートと同じように……。

「よう!諸君。御機嫌よう♪」

優男はニコっと笑うと明るく言った。

「アクイラ!!どうしてここに?!」

アクイラと呼ばれた優男は、薄紫の長髪に美しさを垣間見せる顔立ちをしていて、シャルに名を呼ばれると、満面の笑みを湛えてシャルに近づいていった。

「おお〜♪これは巫女様!私を覚えておいでで!」

ぽかんとその様子を見ていたレムは、不意に我に返った。

「シャル!その男は?!」

「彼はアクイラ……彼もまた、【護り手】よ。」

「ほう♪私もと言う事は……そこの君!君も護り手だね。でもおかしいなぁ……コッチの人間には護り手の力なんて……。」

「俺はレイヴァンを吸収して、真人(トゥレイオ)となった新たな護り手だ。」

「!!真人(トゥレイオ)だって?!そいつぁ凄いじゃないか♪それも、あの殺戮野郎を吸収したんだろ?やるねぇお兄さん♪」

レムに続き他の面々も漸く事態を把握し始めた。

「おい!じゃあお前も仲間なのか?」

ザイバックは一度悩みが吹っ切れたら、いきなり核心を突くような事を平気で言えるのだ……。レムは常々そこだけは見習いたいと思っていた……。

「ん〜…君等が巫女様を護りながらゲートを開きに行くって言うなら、仲間……かな。」

あまりにも敵意の無い話し振りに、彼等の中にアクイラを警戒する心は無くなっていた。暫く質疑応答を交わした後、アクイラは仲間として認められた。

「それじゃあ、ヨロシク頼むよ!共に巫女様を護ろうぜ〜♪」

「おーーーー!!やってやろうぜ!アクイラ!!」

ノリが近いのか、同じ単細胞なのか、ザイバックとアクイラは既に意気投合している。

「しかし、何でまたアクイラが……。」

「おっと、そうだった!それを言わなきゃ!!……巫女様、今ギエルハイムは大変危なくなっています。一刻も早く、ゲートを開かねばなりません。」
レム達は、屋敷に向けての帰路を歩いていた。

「さてと、どう説明すればいいものか……。」

レムは一抹の不安を掻き消せずにいた……エレンブラはケイスの秘密、否、レイヴァンの存在すら知らない……というよりも知らされていなかった。己が変わり果てた姿を視線に焼き付けたとき、彼女が取る態度がレムに不安を駆り立てた。

「あんまし深く考えんなよ。きっとエレンブラだって分かってくれるって!」

「そうですよ!ケイ…いや、レム殿が気に病む程の事は起こりませぬ。」

ザイバックとケイナスはアッケラカンと言葉を投げた。まるで、レムが抱える不安など、単なる杞憂に過ぎないと言った様なその態度に、レムは多少の不安を取り去ることが出来た。

「そうだな、俺の婚約者なんだ……信じてやらなくては。」

「そ!そういうこった!」

ザイバックがニヒヒとレムに野卑な笑いを送ると、レムは不思議と心に巣食う黒い不安が晴れていく様だった。長年付き合いがある中で、レムは初めてザイバックの笑いに救われたような気がした。暫く談笑を交わしながら更に歩みを進めること20分…。
屋敷が見えて来た。

「お!到着だ♪おーーーいっ!!帰ったぜーー!!」

ザイバックは大手を振り、天をも貫きそうな鷹揚とした声で叫んだ。その声に応える様にシャルとエレンブラが明るい顔色を浮かべてレム達の元へやってきた。

「おっかえり〜♪で、どうだったの?ケイスは優勝した?」

「どうだったの?」

二人は無垢な笑顔で待ち遠しそうにザイバックに詰め寄った。ザイバックはたじろぎながら、チラチラとレムとケイナスに視線を送った。が、二人はそれに全く気が付いていない様子で、なにやら話し込んでいた。

「チキショー……シカトか…。」

「ね、ね!」

「早く!!」

ザイバックは諦めた様に大きく溜息を吐くと、後退りを止めて、近づく二人を両手で静止させた。

「わーったよ。結果は…準優勝だ……。」

「う〜ん、惜しかったねぇ……でも、いいじゃん♪流石、ボクの許婚♪」

「ケイスってそんなに強くなったのね。凄いわ……。」

「で、でも……なぁ……。」

ザイバックの声が不意に萎んでしまった。レムの事を話すのが心苦しいのか、頭をボリボリと荒く掻きながら困惑している。

「でも……何?…もしかして!!ケイスに何かあったの?!」

「ま、まぁ……あったといえばあった事になる……かな…。」

「何があったの?!大怪我とかしてないよね!?」

突然に切迫した様にエレンブラがザイバックに詰め寄った。シャルも突っかかるまではいかないが、表情には明らかな不安が見て取れた。

「い、いや!怪我とか、そんなんじゃねえんだ……。つまり、その……何て言うか……。」

「ああもう!!ハッキリしてよ!!……ところで、ケイスはどこ?!」

「いや……それが……その……。」

「何なのさ!!」

ザイバックの思考回路は既に一杯一杯だったらしく、言葉も途切れ途切れになっていた。エレンブラはその態度にイライラを募らせ、ケイスを必死に探している……。目の前に居るレムがケイスであるとも知らずに彼女は懸命にケイスの姿を探している……。
ふと、レムの視界にザイバックのアイコンタクトが飛び込んできた……限界を指しているその表情にレムはフッと笑みを返し、エレンブラに近づいて行った。

「ちょ、誰?ボクはケイスに会いたいんだ!」

「エレンブラ……俺だ…いや、私だ……。」

レムの口から聞こえた声は確かにケイスの声だった。エレンブラは放心した様にレムに視線を止めた。

「え…………ケ…イス…なの?」

「ああ、話せば長くなるが、俺は確かにケイスだ。いや、元…か。」

「どういうこと………なんで…。」

エレンブラは現実に映る変わり果てた婚約者の姿にただ言葉を失った……。すると、シャルが突然レムの頬を張った。

「!!………どう…したんだ?」

「おい!シャル!どうしたんだよ?!」

「……まさか、ケイス……レイヴァンを吸収したんじゃ……。」

「!!」

レムの体がピクッと強張った。シャルの顔は憤怒に彩られている……。

「なに?どういうこと?レイヴァンって誰なの?!」

「……そうだ。俺はレイヴァンを吸収した。そして新たな護り手として新生した……。俺はもう、人間じゃない……。」

「何?!何なの?!どういうことさ!?」

「……そんな!……ケイス!アナタ、どう言う事をしたかわかってるの?!」

「ああ!!俺はもう元の生活には戻れないさ。でも、後悔はしていない!レイヴァンに支配され、俺の体が殺戮を繰り返すよりも、遥かにマシだ!!!!」

「何………どういうことか分かんないよ……。」

「エレンブラ、ちょっと来い、俺が説明する。」

ザイバックは困惑し狼狽するエレンブラに全てを打ち明ける為、エレンブラを屋敷内に連れて行った。ケイナスはその後をイソイソと追いかけて行った……。

「シャル……俺は君が静寂の巫女としてゲートに向かう旅に同行する……。護り手として、そして大切な友達として……。それじゃダメかい?………。」

レムはフッと項垂れた様にシャルの顔を覗きこんだ。シャルの目には雫の如く涙が溢れていた……。

「だって……私の為にケイスが……ケイスじゃ無くなったんだよ……。」

レムは温かく微笑みかけると、シャルをグッと抱き寄せた。小さくて細いシャルの体はフウッと吸い込まれるようにレムに引き寄せられた。

「シャルが気に病む事なんて無いよ……これは俺の意思だから……。」

「ケイス………。本当に、本当にいいの?危険な旅になるかもしれないんだよ?」

「いいに決まってる。それに、俺は強いよ。」

「分かった………。一緒に来て。ゲートまで……。」

シャルの蟠りは消えた……。暫く二人はそのまま抱き合っていたが、ザイバック達の視線に気付き、慌てて離れた。

「お二人とも!拙者達をお忘れでは無いですか!?」

「そうだぜ!!俺達だって付いて行くぜ!!」

「ザイバック……ケイナス……ありがとう!!」

シャルは今とても心が温かかった。異世界にこんなにも自分の事に親身になってくれる仲間が出来るとは思っていなかった。四人は固く握手を交わすと、沈み行く真紅の夕焼けに繋ぎ合った手を高らかに掲げてこれからの旅の誓いを心で結んだ………。

「そういえば、エレンブラは?」

レムが心配そうにザイバックに尋ねた。

「エレンブラなら大丈夫だ。まだ俄かには信じられないって顔してたけど、一応は納得したみたいだぜ。今日はもう休むって言ってたぜ。」

「そうか……彼女には悪い事をしたな。」

「なに辛気臭え事言ってんだよ!!アイツだってお前の事を信じてるから現実を受け止めようとしたんぜ……お前はその愛に応えなきゃな……それが、アイツへの最大の心遣いってもんだぜ!」

ザイバックは自分でも臭い事を言ったなと鼻筋を掻いて照れ臭そうに屋敷へ小走りに走っていった。

「拙者達はレム殿を信頼しています!誰もレム殿を恨むなどしませぬよ……。では、拙者もこれにて休まさせていただきますぞ。
明日からはいよいよ長旅の始まりですからな。」

「明日からはお世話になるね……。改めて宜しく!……それじゃ、私も先に寝てるね!」

ケイナスとシャルも続いて屋敷へ入っていった……。
レムは一人、帳が落ちかけた夕空に向かい、静かに目を閉じた。
これから始まる旅に想いを馳せながら……。
「何てことだ……私が、レイヴァンを吸収したばかりに。」

「何!?お前、レイヴァンを吸収したのか?」

「??何の話をしているのですか?」

ケイナスが怪訝そうに尋ねてきた。そうか、彼はまだ何も知らないんだっけ……私はケイナスに全てを告げた。彼も仲間だ…隠し事は良くない……。例え信じてもらえなくとも、いいんだ。

「なんと!?その様な経緯があったとは……俄かには信じ難いですが、ケイス殿が嘘を言うハズがありません。拙者は信じますぞ!!」

「ありがとう……。」

「して、ケイス殿の中に眠っていたレイヴァンが覚醒し、それを受け入れた変わりに異世界の知識を手に入れた……そして一時期は再び眠っていたレイヴァンが先程の決勝で覚醒した。ケイス殿はそれを必死に抑え込もうとしたところ、自分でも無意識にレイヴァンを吸収した……。そしてレイヴァンと完全な融合を果たしたケイス殿は全く新しい人間として生まれ変わったと……そういう事ですな。」

「そうみたいなんだ。だから今、君達の目の前に居るのはケイス・アルムナスじゃない………。」

「で、でもよ……どうしてそんな事が出来たんだよ?!」

「それは私にも分からない……。ただレイヴァンを抑えようと必死に抵抗していたら、急にレイヴァンが苦しみだしたんだ…。」

混乱する頭を抑えながら、ザイバックは今の現実を受け入れようと必死にブツブツ何かを言っていた。一方、ケイナスは大よその事態を冷静に分析して納得していた………。それにしても、何故私は吸収出来たんだ………?……。

「分かった……お前はケイスじゃないんだな。だったら、名前はどうすんだよ?」

そうだ、この姿じゃもうケイスではない……ケイスと言う人間はもう居ないんだ……。ん?何だ?……何かが意識に呼びかけてくる……【レム】……【真人(トゥレイオ)】……??…何なんだ?
……護り手との契約……それが護り手を取り込み、新生すること……護り手の能力や知識を身に付け、更に進化した護り手になる者……それが真人(トゥレイオ)……。これは?一体誰なんだ?私に語りかけてくるのは一体誰だ……?

「おい!大丈夫か!?頭が痛むのか?」

ザイバックの声に、意識に語りかけてきた声は途絶えた。

「あ、ああ……レム……私は、いや俺はレムだ。」

「レム?俺?」

「ああ、誰かが俺に教えてくれたんだ。直接意識の中に……。
レイヴァンはシャルを護る【護り手】、そしてその護り手と契約を結んだ者、つまり受け入れた者は護り手を吸収する事で、新たな護り手として新生をする……【真人(トゥレイオ)】…それが今の俺だ……。レムとは、ギエルハイムの言葉で【始まり】を意味し、つまり新たに生まれ変わった俺にピッタリの名ってわけさ。俺という一人称は、レイヴァンの名残かもしれない。」

「それって、まさかアッチの人間の仕業じゃねえのか?!」

「そうかもしれない……どうやら、俺には自身でも知らない秘密があるのかもしれない……レイヴァンが俺の中で眠っていたのも……俺が短期間であんなに強くなったのも……。」

暫しの静寂が辺りを包んだ。分からない事が多すぎて、混乱している……。俺は一体……誰なんだ……?

「ええい!こうしてても始まらねえ!!つまり、ケイスはレムになって、強くなった!!レイヴァンは居ない!これでいいじゃねえか!!細かいことは後で考えようぜ!」

ザイバックがたまりかねた様に大手を振って言った。

「そうですな。真実はシャル殿と共にゲートを閉じに行けば自ずと分かるでしょう。」

ケイナスも納得したように頷いた。

「すまないな。俺の所為で色々と苦労をかける…。」

「何言ってんだ!レムになってもお前は俺の親友だろうが!!」

「そうですぞ!」

「みんな………。」

「よし!そうと決まったら先ずは屋敷に戻ってエレンブラやシャルにこの事を報告しようぜ!」

「そうだな……行こう!」

こうして、俺はトゥレイオとして新生し、レムという名を受けた…。何者かの意図によって……。それが何なのか、俺はそもそも誰なのか……事の真相、アウヴァニアとギエルハイムの関係……それは閉じたゲートにあるに違いない……。俺達は屋敷に戻り、シャルと共に旅に出る事を決め、医務室を後にした……
俺の運命の歯車が、少し回り始めた様な気がする………。
私は驚異的とも呼べる速度で戦士へと変わっていった。粗方の訓練は全てこなして来た。今日はザイバックの試みでいよいよ実践訓練となった。そう……これがレイヴァンを抑える第一歩になる……。

「どうした?不安か?」

「いや、いつもの考え事さ。不思議と恐れは無いよ……。」

「その意気ですぞ。自信は力になります故。」

「ま、それならイイんだがよ。さて、そろそろ会場に到着だ。きっとウジャウジャ居るぜ♪戦いに飢えた狂犬どもが。」

ザイバックは楽しそうにある場所を指差した。視線を向けると、そこにはカルナムールに唯一存在する道楽施設「コロッセオ」があった。コロッセオは主に賭け事(ギャンブル)に使われる施設で、武道トーナメントなどが主な人気である。まぁ、確かに御誂え向きではあるか……。

「今日はお前にトーナメントに参加してもらうぜ。他の参加者は文字通り戦いに飢えた狂犬がいっぱいだぜ。なんせ賞金が掛かってんだ……あいつ等はこれで飯を食ってる。強いぜ、金が絡むと人って奴は……。」

私はザイバックの言葉に頷くと、コロッセオに足を踏み入れた。
……凄い。受付ロビーには既に溢れかえる様に人が群がっている……この中で私は戦うのか……トーナメント参加者と思しき者の眼は確かに狂気に満ちている……。これが、戦士……。萎縮する私にケイナスが声を掛けてきた。

「どうですかな?あれが戦う者達です。己の力に絶対的な自信を持っているから強い……そしてしぶといんです。」

「どうやらそうみたいだね。眼を見て確信したよ……私も本気で挑まなきゃ、殺される……。」

背筋にゾワッとした変な感覚が走った。寒気とも違う、何か高揚感に近い………。ザイバックは何やら壁に貼ってある紙に見入っている。

「何を、見てるんだ?」

「あ、ああこれか?これはトーナメント表だよ!お前のエントリーは昨日済ませといたから、ホラ!見ろ。」

何!?勝手に済ませていたのか……。どうやら訓練開始当初からこれを計画に入れてたな……。若干腑に落ちなかったが、今更どうこう言っても仕方ない……どれ、表に目を通しておくか……
なるほど、私の最初の相手は【クレイサン】か……って誰なんだ?

「ほう、クレイサンか……。」

ザイバックがニタニタと笑いながら言った。

「知ってるのか?」

「ああ、クレイサン、通称ハンマークラッシャー。鎖に繋がったハンマーで慈悲の欠片も無く打ち砕く、まぁ殺人鬼みたいな奴だ……。俺も騎士団に入る前に一度戦ってんだ。ま、俺が勝ったけどな♪」

当たり前だろうな……。私にはザイバックに勝てる人間なんて居るとは思えない……彼は戦いの風が見えるんだ……。

「では、第一戦を開始する!クレイサン!ケイス!は競技場に!」

来た……いよいよ実践だ……。ザイバック達の声援を背に受け、私は競技場に入った…………。

「な、なんだ?!」

競技場に入った瞬間、私は狼狽してしまった。地響きの様な大歓声が沸きあがり、360度観客で埋め尽くされている……。

「では、これよりケイス・アルムナスとクレイサン・カイルの試合を始める。両者、前へ!!」

「ヘヘヘヘヘ……今日はお前が餌食になってくれるか……。」

「お手柔らかに頼むよ。」

私には恐怖や不安といったものは無かった。そう、レイヴァンに支配されるより怖いものなど存在しない……。

「両者武器を取れ………始め!!」

大きな大砲の音が響き、戦いの火蓋が切って落とされた。私は雪凪の柄に手を添えてジリジリと間合いを計った。居合いを決めるには後もう半歩の距離が居る。

「おいおい、どうした?仕掛けねえのか?なら、俺からいくぜ!」

クレイサンはブンブンと巨大なハンマーを回し始めた。距離にして三メートル……ハンマーを当てるにはもう少し近づかねばならないはずだ。
私はクレイサンの足元に神経を集中させた………。

「ホラよ!!」

大きく一歩を踏み出すと、クレイサンの手からハンマーが放たれた。

「今だ!!」

私は飛んできたハンマーを瞬時に交わして間合いを一気に詰め、懐ががら空きになったクレイサンの腹部に一閃を走らせた。

「ん?どうした?何かしたか?」

「ちょっとね、君のお腹を切開させて貰ったよ。」

「何バカな事………!!?……ぐわぁっ!!」

体を捻ってコチラを振り返ったクレイサンの腹部から勢い良く血飛沫が舞った。苦痛に顔を歪めるとクレイサンは呆気なく倒れてしまった……。これが、殺人鬼??全く弱い……。私は自分の力がこれ程までに付いているとは、正直驚きだった。観客も全員何が起こったのかを理解できずにポカンとしている。

「勝者!!ケイス・アルムナス!!」

その言葉に、漸く会場が戦いの終了を把握した様に沸き返った。
こうして私の初陣は勝利で飾られた………。その後も私は自分でも恐ろしいほどに次々と対戦相手を薙ぎ倒していった。そして………遂に、決勝まで来てしまった。ザイバックやケイナスは心底嬉しそうにしていたが、私にはどうも解せなかった。私は一ヶ月程度の訓練でここまで来ている。仮にも対戦相手はザイバックを唸らせる程の実力者ばかりだ。幾ら訓練の内容が通常よりも数倍厳しかったとはいえ、これはあまりに強くなり過ぎだ…。

「では決勝を始める!両選手は前へ!!」

私の懸念を他所に、無常にも試合の開始は告げられた。対戦者は
【ケント・クラブル】と言って、レンブラント王国と肩を並べる大国【ドレケイティア】の出身で、レンブラント王国内でも有名な凄腕剣士である。

「さてと、お手並み拝見といこうか。」

ケントは背中の愛剣【クレヴァライズ】に手を掛けてその場に静止した。私は雪凪に指を添えると、ケントににじり寄った。凄い威圧感だ。指が震えて居合いが出来ない。……!!……くっ!こんな時に頭痛だと?……いや、違う、この感覚は……レイヴァン!!……。

「どうした?仕掛けないのならコチラから行くぞ……。」

どうして、出て来た……。どうして?ひでえじゃねえか…。お前は俺を受け入れたハズだぜ?なのにこんな楽しいパーティーに俺を呼ばないなんてよぉ……。止めろ!お前は殺戮しか生まない……。いいじゃねえか……静寂の巫女さえ無事ならイイんだよ……。後は俺の飢えを満たす為の道具だ。……くっ!!私はお前など認めない……。殺戮を糧にするなど……絶対に許さん。……!!何だ?何て力だ?!……うおっ!?俺が、俺の意識が……。まさか、お前……俺を吸収する気か?!……もし、それでお前が消滅するなら…やってやる!……止めろ!!そんな事をしたらお前は人じゃ無くなるぞ!!……構わない…。お前をこのまま野放しにするよりもマシだ。……止めろ、止めろぉぉぉぉぉぉぉ!!………。レイヴァンの声は消えた。体が熱い…。レイヴァンの存在は消えた……。私は……レイヴァンを吸収したのか……これで、私は人じゃ無い………人じゃ…………。

「おい!大丈夫か?」

「………ん?ここは……。」

「ここは医務室だよ!ケイス、お前突然倒れてどうしたんだよ!?」

そうか……レイヴァンを吸収した後、私は気を失ったのか……。

「それに、ケイス……お前、何があった?顔が変わってるぞ。」

「何?顔が……!!まさか、鏡は!?」

「ここだ!ホレ!」

ザイバックの差し出した鏡に映っていたのは私の面影を残した別人だった……。吸収の業……なのか?………。
三日月が紅く不気味に衒い、街は静寂と混沌に包まれた。

青年はビルの屋上にスックと立ち、眼下に広がる鬱蒼とした人間の群れに一瞥を下すと、踵を返して背後の気配に睨みを利かせた。

「俺の“コレ”が狙いなんだろ?」

青年は背中に挿してある刀を鞘から引き抜くと、キラリと紅く不気味な月明かりに刃を向けた。

「そうだ。大人しく【十六夜の剣】を渡せ。俺は無駄な犠牲を出したくない……。」

気配はカツカツと小気味良い靴音を鳴らし、月明かりの下に身を晒した。黒いスーツに身を包んだ三十路程の男が一人。手には拳銃が握られていた。男は野卑な笑いを浮かべると、拳銃を突き出し、青年に諭すように言葉を投げた。

「君も分かるだろう?いくら刀身が長くとも、この距離での抵抗は、自殺行為だよ。さぁ、大人しく渡すんだ。」

男の声に青年はニヤッと不気味な笑みを零した。まるで、今の状況を楽しんでいるかの様に……。

「分かっていないのはアンタだよ。俺に猶予を与えたんだから。」

「ふん、何を言って……。」

男が嘲笑するよりも速く、青年の姿は消えていた。

「??ど、どこだ!?」

男は慌てて辺りを見回した。手が震え、その身は恐怖に彩られていた。眼前で青年が一瞬にして消えた……手品かはたまたSFの世界の様な非現実を現実として目の当たりにした驚愕と狼狽は察するに余りあった。

「ここだよ。ホラ。」

男はバッと声の方に身を向けると、少し落ち着きを取り戻したらしく、再び拳銃を突きつけた。

「おいおい、おふざけも大概にしないとな……。コッチもあんまし気は長くねえんだよ、ボウヤ。」

拳銃のトリガーに手を掛けると、男はある異変に気付いた。目の前にあるハズの拳銃が無い……。いや、肘から先が無い……。
男は何が起きたのかも分からずに目線を落とすと、そこには拳銃のトリガーに手を掛けた状態で転がっている肘から先があった。

「あらら、あんまし動かない方がいいよ。アンタもう斬り刻まれてんだから……。」

「え?お、俺の腕が……ヒィーーーーーーーー!!!!」

男はあられもない大声で悲鳴を上げた。苦痛と恐怖に顔を歪め、青年の凶気に満ちた笑顔に思わず逃げ出してしまった。

「う、うわーーー!!!コイツ、バケモノだーーー!!」

「あ〜あ、動いちゃったか。残念……。」

逃げ出した男の体は、男が一歩一歩進む度に、在るべき位置からずれて行った。男は悲鳴と断末魔を上げ、間も無くして、肉塊と化した……。切断面からはジワジワと紅い血が染み出し、まるで今宵の月明かりの様だった。

「今宵の十六夜夜業は終了っと。さてと、帰宅するか。」

青年は刀を鞘に戻すと、ビル群の中をまるで忍者の様に飛び継いで行った………。

ジリリリリリリ……うるさい目覚ましの音で、青年は起きた。

「ふ、ふあぁぁぁ。ん〜最悪な目覚めだな。」

青年は寝ぼけ眼のまま洗面台に立ち、洗顔、うがいを終える頃にはすっかり目が覚めていた。

「あら、誄くん、おはよう。」

不意に誄の背後から優しく甘い声が聞こえて来た。

「ああ、おはよう!庵樹さん。」

庵樹と呼ばれた、日本人形の様に清純で綺麗な女性は、姓を群雲と言い、誄が神楽家から移って来た時から実の弟の様に誄を可愛がっている人である。そもそも、誄の実家である神楽と、庵樹の群雲は、先祖代々の繋がりがある分家筋の様なもので、誄の父で、誄の幼少期に【十六夜の剣】を残して他界してしまった【神楽 修也】の意思により、誄は群雲家で6歳から育てられたのであった。

「今日はお休みなのに、どこかお出掛け?」

「ん?あ、ああ。ちょっとね……鈴音の奴が買い物に付き合えってうるさいから…。」

庵樹には、誄と同い年の妹、群雲 鈴音(むらくも すずね)がいた。庵樹が大人しく優しいのに対し、鈴音は明朗快活で破天荒な性格だと誄は常々愚痴っていた。

「あら、鈴ったら……誄くんを使いっぱしりにして……。」

ぷうっと頬を膨らませて庵樹は怒った。ぷんぷんと言う擬音が良く似合うその怒り方に、誄は少なからず可愛さを感じていた。

「誄ーーーー!起きたぁ?」

鈴音の声が不意に響いた。誄は素っ気無く返事をすると、庵樹の肩を押しながら食卓までイソイソと歩いていった。庵樹は食卓に着くと、テキパキと朝食の用意を始めた。時刻は8時を少し回っていた…。我ながら今日は早起きだなと誄は一人、満足感に浸りながら朝のニュースに目を遣った。

「今朝、入ったニュースです!都内の某ビルの屋上で、肉塊となった男性が、職員に発見されました。切断面がとても綺麗で、警察も、非現実的な死に方に、未曾有の恐怖を募らせている模様です。」

「ふ〜ん、怖い話だな。庵樹さんも気を付けないとね。」

「本当ね。あまり夜遅くは出歩かない様にしなくちゃ。」

「そんなの、私の【七星】の力でやっつけちゃうんだから。」

何時の間に席に着いたのか、鈴音が首にぶら下がった玉のネックレスを掴んで得意げに胸を張っていた。

「止めとけよ。こういう事件には関わらないに越した事は無いぜ…。」

誄は呆れ顔で鈴音を諭す様に言った。鈴音は不満げにムスッと顔をしかめると、手をヒラヒラさせて言った。

「誄だって、【十六夜の剣】があるでしょ?」

「あのなぁ、確かに俺は免許皆伝だ。でも、無駄に身を危険に晒せるかっつうの!大体、犯人の手口を聞いたか?切断面が綺麗なんだぜ?!普通の刃物じゃ絶対無理なんだぞ。」

身をブルブルと震わせて誄は鈴音を見た。その顔には余計な事は絶対するなと言わんばかりに真に迫っている。

「わ、分かったわよ。ほっとけばいいんでしょ?」

「そう言う事!」

納得がいったのか誄はウンウンと頷くと、朝食を取り始めた。鈴音はまだ納得がいかない様子で、何度も何か言いたげに誄を見遣った。一方、誄はそんな鈴音などお構いなしと言った様に、芸能ニュースに目を奪われていた。

「鈴…。早く食べないと、今日は誄くんと買い物なんでしょ?」

庵樹の言葉にハッと思い出したように鈴音は朝食を大急ぎで済ませると、自室に足早に駆けて行った。

「ん?鈴音の奴……どうしたんだろ?」

「ウフフ、鈴も女の子なのよ……。」

「????」

誄は庵樹の言葉の意味を模索しながら、再び芸能ニュースに視線を遣った。すると思考回路は直ぐに模索を止めて、学校での芸能ネタ集めに没頭してしまった。

「お待たせ!さ、誄。そろそろ行くよ!」

あれから30分程経ち、朝食を済ませゆっくりと寛ぐ誄と庵樹の前に、見たことも無い格好で鈴音が現れた。

「お、おい!何だよそのミニスカートは……。お前、今までずっとジーパンとかだっただろ?」

誄の慌てた様子にニヤっと含み笑いを浮かべた鈴音を庵樹が愛おしそうに見つめて来た。

「ああ、可愛い!!鈴、スッゴク可愛いわよ。お姉ちゃん、食べちゃいそう……。」

「エヘ、そうか、な?」

照れる鈴音を見て、庵樹は益々興奮したのか、隣りに居た誄の肩をバンバンと勢い良く叩いて萌えている。

「いや〜ん!可愛い〜!」

「痛い、痛いって!!お、おい鈴音、さっさと買い物に行こうぜ!!このままじゃ庵樹さんに撲殺される……。」

誄は庵樹から逃げるようにして鈴音を引っ張り、一目散に飛び出した。

「あ〜、死ぬかと思った。」

「さ!今日はとことん行くわよ!!」

「お手柔らかに………。」

こうして二人は買い物へと出掛けた。その背後に迫る人影に気付かずに…。
―パーティーから一夜明け、私は騒々しい音で目が覚めた。

「どうしたんだ?こんな朝早くから……。」

眠っているエレンブラを起こさない様、そっとベッドから離れると、寝ぼけ眼を擦って音のする中庭に出向いた。

「おう!起きたかケイス。お前も早く顔洗ってこいよ。」

そこにはザイバックとケイナスが剣の訓練をしていた。そうか、昨日約束したんだっけ……剣の教えを請うと……。よし、顔を洗って来るか…。私は部屋に戻り、着替えを済ませると顔を洗って再び中庭に出向いた。

「で、私は何から始めればいいんだ?」

「そうですな、まずはこれを。」

そう言ってケイナスが私に細長い筒を渡した。

「……これは?」

不思議そうに問う私を、ザイバックは呆れた様に見た。

「おいおい……それは刀だよ。鞘に収まってんだよ。」

鞘?……ああ、そうか。あまりに細いんで気付かなかった。ザイバック達の鞘は平たいから……。

「それは【雪凪】。ケイス殿の刀です。」

「え?貰ってもいいのかい?」

「当然です!自分の刀も持たぬ剣士などおりませぬ。」

「でも、高価な物なんじゃ……。」

「心配すんなって!ケイナスがやるって言ってんだ。」

「そうですよ。拙者は是非、受け取って欲しいんです。」

「そ、そうか……ありがとう。大切にするよ。」

凄い…これが刀か。芸術品だな……。スラッと長い刀身は美しく銀に輝き、鞘は細かな装飾が施されている。

「さてと、んじゃ始めるか!!朝食までに、まず基本的な事を覚えてもらうぜ!!」

「では、まずは拙者が刀の扱い方を……。」

よし、私は必ずこの【雪凪】をモノにしてみせる。固い決意を今一度確認し、私の訓練は始まった………。

「まず、刀は刃が片方しかありませぬ。そう、この曲がっていて波模様が付いている薄い部分です。ここでしか斬る事は出来ませぬ。」

「じゃあ、背の部分は何に使うのかな?」

「刃の反対側の背の部分、これは【峰】といって、相手に打撃を与える時に使います。例えば、相手を殺さず、気絶させたい時は峰の部分で相手の後頭部を打ち付けて気絶させます。これを【峰打ち】と言います。」

なるほど。刀はブレードの様に相手を打ち倒す事のみを目的に作られているワケでは無いと……。つまり、無駄な犠牲を極力削減出来ると言うワケだ……。

「次に、刀は叩きつけるだけでは斬れませぬ。刀がその世界最高の切れ味を発揮するには、斬りたい箇所に刀の刃を当てたら、引かなくてはいけませぬ。」

【ブレード】が叩きつけて骨ごと砕いて相手を殺すのに対して、刀はあくまで局所的に相手を切り刻むというわけか。

「斬った際に注意せねばならぬのは、返り血です。刀は切断する武器です。故に切断箇所からは勢い良く血が出ます。刀を引いて斬ったらば、素早く身を後ろにずらして返り血が目に入らぬ様、注意して頂きたい。」

「どうだ?刀の事、分かってきたか?」

「ああ、何と言うか……扱うのに数年を要する理由が分かったよ。戦闘技術がかなり要るみたいだね。」

ザイバックは私の答えに納得したのかうんうんと頷くと、自慢げに鼻を鳴らした。

「フン!流石ケイス!よく分かってんじゃねえか。だったら、まず自分が身に付けるべき事は……分かるだろ?」

「ああ、まずは基礎的な剣の技術が必要だ。ザイバック、頼む。」

「おう!そうだな、まずは腕立て伏せ300回!!」

「何?何で腕立て伏せなんだ?」

「おいおい、ケイス、刀や剣は腕の筋力が無きゃ自在に振れないんだぜ。お前は体力に自信が無いんだろ?だったら当分は基礎体力を作らなきゃな♪ホラ!始め!!」

……どうやら、私の考えが甘かったみたいだ。ザイバックやケイナスもこういう地道な下積みがあったから、今みたいに立派な剣士になったんだ。私だけいきなり刀の訓練にいけるハズが無いんだ……。自分の認識の甘さに僅かな自己嫌悪を抱きつつも、私は黙々と基礎体力作りに励んだ。………雨の日も、風の日も……。

―基礎体力作りを始めて10日経った。

「よし!大体いいだろ!しっかし、よく付いて来れたな。俺達は通常の倍以上の量でカリキュラム組んでたんだよ。ケイス……お前、すげえな。普通の兵士でも音を上げるぜ。」

「え?……私がこなしていた訓練は……通常の倍以上の過酷さだったのか?」

「ええ、早くケイス殿に刀の訓練に移って貰いたく思いましてな。拙者達も、五日が限界かと踏んでいたんですが、まさか全部こなしてしまうとは思いませんでした。やはり、ケイス殿には剣士としての素質がおありだ。」

「うっし!それじゃ今日から剣を使った訓練だ!ケイス、雪凪を抜いてみろ。」

「あ、ああ。」

「よし、それじゃ試しに振ってみ。多分恐ろしく軽く感じるはずだぜ♪」

そんなバカな。腰に下げているだけでズシリと重みが伝わって来ると言うのに……。私は半信半疑のまま刀を鞘から引き抜いた。

「な……そんな……か、軽い!!まるで紙の様に軽い!!」

刀を振ってみるが全く重みを感じない。凄い!!自在に動くぞ!!

「ありがとう!ザイバック、ケイナス!まさか私にここまで筋力が付くなんて……。」

「おいおい、まだお礼を言うには早いぜ!こっから訓練は本番なんだからよ!」

「そうですぞ。では、先ずは基本的な型を、そして足裁きをお教え致します。しっかりと付いて来てくだされ。」

「ああ!お願いするよ。」

私はただ無我夢中で訓練を消化していった。自分でもどこまで体力が保つのか分からなかったが、今はそんな悠長な事は言ってる場合じゃない。一刻も早く、剣士として……。そして、レイヴァンを制御できる力を……。

―訓練開始から20日目……。

私は刀の型、足裁き、相手の攻撃の受け流しや裁き方をほぼ体得していた。体力のほうも、一日40kmは軽く走れるまでになった。ザイバック達も正直驚いているらしい。常人じゃ在り得ない速度で私は剣士としての階段を駆け上がっているらしいのだ。
これも、全てはシャルを守りたい、レイヴァンの力を制御したいという想いが後押ししてくれているからだろう……。今日からは、実際に腕利きの剣士を募っての実践訓練に移るらしい。漸く、漸く実践まで漕ぎ着けた。【雪凪】も既に私の体の一部の様になっている。コンディションもベストだ。今までの私なら在り得ない事だが、今の私は自信を持ち始めていた。

「今日は試合なんだよね?あんまし無理しないでよ。ケイスに何かあったら、ボク……。」

「分かってるよ。私は絶対勝つよ。だからエレンブラは応援していてくれ。」

心配そうに体を寄せて来るエレンブラをギュッと抱き寄せると、私は頬に口づけをして部屋を後にした。

「おう!それじゃ、記念すべき実践といくか♪」

「ケイス殿には戦場で戦果を挙げられる程の技術は叩き込みました故、自信を持って下され。」

「ああ、私はまだ剣士としては未熟だ。でも、精一杯やれるだけはやるつもりさ。」

「そうだ!よく言ったぜ!!短期間での急成長に少しは天狗になってるかと心配したけど、どうやら余計なお世話だったみたいだな♪」

…………こうして、私は剣士としての腕を確かめる為、戦いに飢えた戦士達の中へと飛び込んでいく事になった………。待っていろ、レイヴァン。私は二度と過ちは繰り返さない!繰り返させない!!

To be continue……

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